〔橘屋〕のお仲(8)
「叔母上。申し送った件についての、甲府勤番から調べ書が参りました」
納戸町の於紀乃(きの 68歳)の許(もと)へ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が報告にきている。
(市ヶ谷・納戸町の長谷川久三郎(隠居・於紀乃)邸)
於紀乃の甥で、9年越し、勤番支配という要職を勤めている八木丹後守補道(みつみち 54歳 4000石)への添え状を乞うたとき、
「銕三郎どの。探索の実(みの)りは、かならず、報らせてたもれ。面白うて、久しぶりに、なんだか、わくわくくしてきたぞえ」
念を入れられた。
【参照】2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)
「伝太郎は、きちんとやってくれたかや?」
伝太郎とは、丹後守補道の、元服前の幼名である。
従五位下の爵位をもつ甥を、幼名で呼び捨てにできるのは、もっとも縁近い叔母なればこそ。
いま54歳の甥・丹後守補道も、於紀乃の中では、自分が長谷川久三郎正誠(まさざね 享年=69歳 4070石)に嫁(とつ)いできた49年前の、5,6歳のあどけない姿が、まず、おもいうかぶのだ。
「さすが、叔母上の一筆がものを言いました。古府中(甲府城下)あるすべての印伝革の細工所をくまなくお調べくださいました」
「勤番支配として、そんなことは、あたりまえのことじゃて。して、盗賊どもは捕縛できたのかや?」
「いえ。このたびの調べは、前に申しあげましたごとく、盗人が用いた印伝革の細工所を見つけるためで---」
「見つけたのであろう?」
「はい。穴切(あなきり)社の参道ぞいに店をかまえている〔穴切屋〕惣右衛門という店が注文を受けておりました」
於紀乃は、膝をのりだして、顔をしかめた。
動くと、膝痛がおきるのであった。
痛みが鎮(しず)まるまで待ち、
「その店は、注文者のところと名を手控えていたであろうが---」
「偽(いつわ)りの村と、名でした」
「なんという、間の抜けたことを。考えてもみやれ、銕三郎どの。その注文者が、注文をだしたきり、引きとりにこなかったらどうするつもりだったのじゃ。前金でもとっておいたのかえ?」
「いいえ。さいわい、注文者は、引き取りにあらわれて、すんなり支払いました」
歯のない口での言葉だけに、なかなかに聞きとりにくいが、銕三郎は、要領よく意味を汲みとっている。
ただ、力むたびにつ唾(つばき)が飛ぶので、すこしずつ引いている。
その分、於紀乃が膝を気にしながらにじみでる。
「ええい、じれったい。つまり、まんまと、取り逃がしてしまったのかや?」
「伯母上。5年前のことです」
「5年前? 伝太郎が勤番支配として古府中へ行かしゃったのは、9年も前でありましたぞい」
「盗人のことが分かったのは、つい、先だってのことで---」
「ほんに、そうじゃった。銕三郎どのは、これから、どう、手をお打ちなさるお積もりじゃ? まさか、これで幕引きにするつもりではなかりましょ?」
「もう一度、八木丹後さまへ、添え状をいただけましょうや?」
「おうおう、いくたびでも書きましょうとも---」
「このところの、人の出入りを調べていただこうとおもいます」
銕三郎は、於紀乃には打ちあけなかったが、甲州路の関所---勝沼から1里(4km)ほど江戸寄り---靍瀬(つるせ)の女改めの関所に注目している。
女賊・お松が江戸から呼び戻されたとして、この関所を通りぬけないためには、駒飼(こまかい)か笹子峠の手前の阿弥陀宿あたりの盗人宿にひそんでいるとみたのである。
(甲州路 勝沼--(靍瀬関所)--駒飼・阿弥陀
岸井良衛『五街道細見』青蛙房の付録地図より)
そのあたりを、八木丹後守の配下に調べてもらいたかった。
【ちゅうすけ注】パラすと、銕三郎のねらいは外れていた。〔初鹿野(はじかの)〕一味がもうけていた盗人宿は、なんと、富士川ぞいの身延に近い角打(かどうち)であった。このころ、盗賊たちとの知恵くらべには、銕三郎も、まだ、およばないところもあったのである。
「銕三郎どの。こうしてはどうかの。銕三郎どの自らが甲府に出張られては? この結末を見るためなら10両(ほぼ150万円)でも、20両(300万円)でも、惜しょうはない。冥土へは持っていけない金じゃもの。わらわが払いますぞえ」
銕三郎の頭に、肉(しし)置きのよくなってきたお仲の躰がうかんだ。
(いま、5の日ごとの師範を中断するわけにはいかない)
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お仲のイメージ)
「すぐには、かないませぬ。いずれ、お願いにあがります」
お仲が消えると、代理として行けそうな〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の、どちらが適役か、思案をはじめていた。
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