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2008.09.16

ちゅうすけのひとり言(24)

100いささか遅れ気味ではあるが、古くなるというものでもなし---。
9月7日(日曜日)午後の、静岡のSBS学苑[鬼平]クラスのあらましの報告。

テキストは、『鬼平犯科帳』文庫巻8[流星]。

ただし、ビデオは、[大川の隠居]と合わせての特別番組篇なので、[大川の隠居]もからませてのレクチャーとした。

文庫6[大川の隠居]が、池波さんの少年時代を送った永住町と目と鼻のさきの、台東区寿1丁目の竜宝寺鯉寺の巨鯉の供養碑がヒントになってできた物語であることは、同クラスの「江戸の鬼平ウォーキング」で、すでに碑に参詣したので、ほとんどの受講者が知っている。

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([大川の隠居]のモデルの巨鯉の供養碑 竜宝寺)

松本幸四郎(白鸚)丈が鬼平を演じた[大川の隠居](1972年(昭和47)3月16日)に放送されたことをまず指摘したい。
このときは、[流星]とはあわさっていない。
と断言できるのは、[流星]が『オール讀物』に掲載されたのは、幸四郎丈=鬼平が放送された3ヶ月後の6月号だから、原作がなかったことによる。

で、推測を述べた。
幸四郎丈=鬼平の[大川の隠居]撮影は、12月と1月の東宝歌舞伎シーズンを外した1971年(昭和41)の晩秋であったろうと。
で、台本はその前後に池波さんの手元へとどいていたであろうし、池波さんも目をとおしてチェック、朱筆入れもしたであろう。
が、翌年3月の放送を観て、勃然と、〔浜崎はまざき)〕の友五郎(盗賊としての名は友蔵)という男に興味が深まったのではなかろうか。

というのは、『鬼平犯科帳』を通じて、火付け盗賊方と密偵をのぞき、盗賊をはじめ、ほとんどの脇役は使い捨てである。
例外は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)と、文庫巻11[]で登場した京扇店〔平野屋〕の〔帯川おびかわ)〕の源助(げんすけ)と番頭・〔馬伏まぶせ)〕の茂兵衛、そして、池波さんが急逝されなかったらふたたび顔を見せたはずの〔荒神こうじん)〕のお(なつ)くらいである。

(いつかも書いたが、このブログは、〔荒神〕のおの手からおまさを救い出すまでの大長編のつもりなのである)

しかも、原作[流星]を、池波さんは一気呵成に書いた気配がある。
理由は、ふつうの篇は400字詰原稿用紙50~70枚なのに、この[流星]は140枚近くと、2倍から2.5倍も筆が走っている。
興がよほどに乗らなければ、こんなにはずむものではない。

ついでだから、参考までに記すと、150枚前後の『犯科帳』の短編は、ほかには巻2[妖盗葵小僧]と巻3の京から大和へ行く[兇剣]がある。

じつは、ちゅうすけは、幸四郎丈=鬼平をほとんど観ていないので、以上は、あくまでも独断である。

もう一つ、独断を加えると、テレ屋の池波さんは、[大川の隠居]からの連想を隠すために、[流星]では、物語の出だしを京、枚方、大坂、それからゆっくりと江戸(巣鴨、板橋、川越)にもってきている。
故意に(鯉にではなく)、大川からそらしている。

もちろん、新河岸川は川下で荒川につながり、荒川は千住あたりで名を隅田川、そして大川橋をくぐると大川と呼ばれる。

 千住女郎衆は碇(いかり)か綱か、今朝も二はいの船とめた p190 新装版p200

ここで、嘉永にでた郷(村)名によるカラー版大地図の、川越城下から新河岸川づたいに、[流星]にでてくる廃寺のあった福岡郷、友五郎の生地である浜崎の入った原寸カラーコピーを配布。
(このブログでは縮小版しかお目にかけられなくて残念。拡大図の入れ方を学習していない)。

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(右上の□=川越 緑○上=福岡 下=浜崎 両郷を結ぶ川=新河岸川)

この新河岸川ぞいのウォーキングは、東武[上福岡駅]から始まるが、船積み問屋の旧家を利用した市立河岸記念館などが参考になるものの、帰りのバスは対岸の花の木中学前だが、1時間に1本---しかも、長い運行区間のせいで、時間にルーズなので、よほど忍耐心がないと、やってられない。

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(上福岡市の船積み問屋の家の河岸記念館 入場券)

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