屋根船
「どちらまででございますか?」
女中頭らしいのが、無表情に訊く。
男女2人づれの船宿客だと、それがもっともふさわしい表情だと、心得ている。
「須田(すだ)村の水神まで頼みたいのだが---」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)にかぶせて、お竜(りょう 29歳)が、
「屋根舟でお願いします。船頭さんはお年寄りのを---」
こんな時刻でも、大川(隅田川)を上下する船は少なくない。
この季節だから、屋根舟は、障子を取りはらって川風をいれている。
話し声は、船頭につつぬけなので、2人はほとんど話さないで、岸辺に点在する料亭の灯を眺めていた。
ひときわ、空が明るくなっているのは、新吉原であろう。
(新吉原 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
須田村が近くなった。
船頭が、向島岸へ舟を寄せようとしかけたとき、お竜が、
「船頭さん。酒手をはずみますから、千住大橋の先までやってくださいな」
「待ちは、どれくらいになりやす?」
「小半刻(こはんとき 30分)---」
こういう客に、船頭は馴れている。
「五ッ半(午後9時)までに帰えしてくだせえ」
「そうします」
「家には、お勝が帰っていますから---」
お竜が、つぶやいた。
千住大橋から先は、隅田川は荒川と名が変わる。
合流している新河岸川の河辺には、芦が茂っており、舟が入ると、人目に触れない。
【ちゅうすけ注】『鬼平『犯科帳』文庫巻6[狐火]。
2代目〔狐火(きつねび)〕をついだ又太郎(またたろう 32歳)と〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 60代)、、おまさ(33歳)が苫舟(とまぶね)で綾瀬川から大川へ出て、隠れた芦の叢(くさむら)は、木母(もくぼ)寺の近くp154 新装版p163
---だが、お竜は、橋場の渡しで戻ってくるお勝に見つかるのをおもんぱかって、もっと上流の芦叢を指定した。
文庫巻13[殺しの波紋]p59 新装版p61で、与力・富田達五郎が舟を入れさせたのは、橋場の渡しの先の枯れ芦の群れであった。
お竜の指定は、もうすこし先の、もっと茂った叢であった。
やぼな注釈だが、新河岸川は、川越あたりから発している。
『鬼平犯科帳』巻8[流星]で、〔鹿山(かやま)〕の市之助(いちのすけ)が、船頭・友五郎(ともごろう)を強要し、舟で盗品を運びこんだ廃寺は、新河岸川のここから3里(12km)ばかり川上にあった。
舟を乗り入れ、岸近くの芦にもやい綱で留めると、船頭は、すだれを半分おろし、
「たばこを吸ってきやす」
船室にあった行灯を持ち、
「灯かりがあると、のぞきにくる不心得者がいやすんで---」
舟を降りていった。
月明かりだけになった。
お竜は、待ちかねていたように、銕三郎の指を導いた。
お竜の下腹が、月の青白い光をうけて、天女の肌のようであった。
(国貞 月光の舟上 イメージ)
「夢の中での出来事です」
お竜は、夢を満喫していた。
うわ言のように、
「銕(てつ)さま、銕さま、好き、好き---」
つぶやきながら、余韻をながびかせている。
「お竜どの、拙も忘れませぬ」
「お竜どのではありません。銕さまのお竜です。どのをつけられると、夢が醒めます」
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