久栄のおめでた
「銕(てつ)どの。久栄さんは、もしやして、おめでたではないのかえ?」
母・妙(たえ 44歳)が、私塾・学而(がくじ)塾へ出かけるために、離れから内庭を抜けようとした銕三郎(てつさぶろう 24歳 のちの鬼平)を呼び止めた。
久栄(ひさえ 17歳)は、嫁してきて3ヶ月がすぎ、夜中、灯(あ)かりなしでも手さぐりをしないで厠へ行けるようになっていた。
「あ。そういえば---」
「そういえば、って、月のものは---」
「ですから、それがないので、毎夜---」
「あきれたこと。月のものが止まれば、ややができたに決まっているでしょう」
「むすめのころ、ないこともあったと言うものですから---」
「いつからない---いえ、それは久栄の口から聞きましょう」
そういうことで、長谷川家では、その晩、赤飯を炊いて、おめでたを祝った。
父・宣雄(のぶお 51歳)も、わざわざ、
「祝いの膳ゆえ、奥も、久栄もともに---」
と、膳を書院へ運ばせた。
「久栄。丈夫な子を、たのむぞ」
「明日から、2,3日、お実家(さと)帰りをなされては?」
妙も、久栄の躰をいたわるように言った。
「ありがとうございます。しかし、実家へは帰りとうはございませぬ。このまま、銕さまといてはなりませぬか」
「ならぬということはありませぬが、ややの腰が定まるまで 夜のことは控えぎみになされませぬと---」
「お母上が、銕さまをお身ごもりなりましたときも、実家へお渡りになりましたのでございますか?」
妙は、軽く笑いにごまかしながら、
「銕どのが宿ったのは、実家にいたときです。殿さまが、知行地の一つである寺崎の新田開拓の監督においでになっていて、村長(むらおさ)であったわたくしの家の離れに、ずっとお泊りになっておられまして---」
「あら。ご婚儀なし---でございましたの?」
「婚儀もなにも---」
「これ。奥、人聞きのわるいことを話すでない---」
「いいえ。久栄はもう、長谷川の嫁なのです。隠すことありませぬ」
妙は、毅然と突っぱね、宣雄は、てれ笑いですませた。
「あのときは、わたくしのほうから離れへ押しかけたのですよ。そうでもしないと、殿さまは、言い寄る村の後家でおすましになりそうでしたゆえ---」
「これ。妙---」
「わたくしが、湯もじもつけない浴衣一枚で押しかけましたのに、殿さまときたら、本から目を離そうろとなさらないので---」
「もう、いいではないか。20何年もむかしのことじゃ」
「ですから、むしゃぶりついて---」
「よさないか。そんな話をしては、若い者が、今夜も張りきるぞ」
「おっほほほ。ほんに、わたくしまで、芯が熱くなってきて---」
【参照】2007年6月12日[神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)]
2008年10月10日[〔五井(ごい)の亀吉] (1)
(歌麿『ねがいの糸口』 20数年前の夜のイメージ)
離れでの会話を盗み聞いてみる。
「お父上にも、火がついたみたいでしたよ」
「いいではないか。まだ、お若いのだ」
「------」
「------」
「------ う、ふん」
「---む」
「ややに、あいさつをしてやってくださいまし」
「こんにちは、赤ちゃん、拙が父だよ、ってか。よし、まいろう」
(清長 久栄のイメージ)
虫の声がはげしくなり、その先は聞こえなくなった---ということにしておこう。
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