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2009.05.10

田沼意行の父(4)

ちゅうすけつぶやき】今日:5月10日(旧暦)は、平蔵宣以の命日である。戒行寺の霊位簿は、寛政7年5月10日 海雲院殿光遠日耀居士 とある。
旧暦の5月10日は、新暦の6月26日にあたるらしい。

『寛政譜』では、寛政7年5月19日卒 50歳 となっている。

現役でのまままの逝去なので、先手組頭の当番の彦坂氏らが、辞職願を14日に幕府へとどけ、16日に受理され、公式に喪を発することができたのが19日であったということ。

★2006年6月25日[寛政]7年5月6日の長谷川家]
★2008年4月28日[ちゅうすけのひとり言] (11
★2006年4月1日[長谷川平蔵年譜
★2006年5月1日[高貴薬・瓊玉膏の下賜]
★2006年5月12日[平蔵の後釜に坐る


ずっと前に、田沼意行(もとゆき)がらみで、安池欣一さんから『南紀徳川史 第一冊』の部分コピーをいただいていた。

安池さんのリポート[田沼意行の父]を転載するにあたり、めくりかえしていて、「これは---」というページに目がとまった。

七代将軍・家継がわずか8歳で死去したとき、紀州藩主・吉宗(33歳)が後継として指名され、藩邸から急遽、二の丸へつめたことはつとに知られている。

そのとき、扈従というより吉宗の身辺警護のために150人前後の江戸詰藩士が柳営に入った。
その中に、田沼意次の父・専左衛門意行もいた。

意行の紀州藩(37万5000石)での職分と家禄が記録されていたのである。

小姓 50石。
田代七右衛門養子

とも書かれている。

吉宗が将軍職につくことにより、意行の職と家禄は、

300俵 小姓
主殿頭

に格上げされた。
徳川幕府の直轄地は実質400万石ともいわれていたから、紀州藩での10倍になってもおかしくはない。
それが、6倍でぁった。
吉宗が、もともとの幕臣たちへ配慮したのでろう。
(もっとも、意行は、その後加増されて700石になっているから、結果的には14倍であった)

同じリストに、菅沼新左衛門の名があったので、主題とはかかわりがないが、参考までに転紀しておく。
紀州藩士のときは、

用達 400石

扈従しての江戸城入りの直後は、

小納戸(側近) 主税正 400石

これも、幕臣たちへのはばかりであろう。
11年後に従五位下、主膳正。さらに7年のちに300石加恩。
まわりを紀州出身者でかためた吉宗の、したたかな施政ぶりがうかがえる。

このほか、膳まわりの者が12名、のちにお庭番と名を変えた薬込めの者が6家、急ごしらえにしても鷹狩りかかわりの者が鷹匠・鳥見をふくめて5名も指名されているのは、いかにも、鷹狩りがすきな吉宗らしい。

参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父] () (

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