〔般若(はんにゃ)〕の捨吉
「銕(てっ)つぁん。〔小浪〕で、お神酒を振舞われやした」
彦十(ひこじゅう 36歳)が注進してきた。
冬だというのに、袷1枚の姿である。
「ご苦労。飲まないで、古着の綿入れでも買うんだな」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、懐紙に手ぱやく1分金(4万円)をつつんだ。
(これで、2番目の兆しだ)
1番目の兆候は、(浅草寺)奥山で蝦蟇(がま)の脂売りの口上をのべている浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)の使いで、今助(いますけ 24歳)のところの若い衆が、昨日、かけこんできた。
上野山下から広小路へかけての盛り場を縄張り(しま)にしている香具師の元締・〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の配下の者とおもわれるのが3人、奥山の屋台店に因縁をつけた。
(浅草・奥山の〔卯の木屋)房楊枝の仮店。屋号は柳に由来。
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
とりわけ、有名な楊枝の〔卯の木屋〕の仮店にねらいをつけ、台板をひっくり返して房楊枝を散乱させた。
浅田用心棒がかけつけると
「二代目・青二歳に伝えときな。いつでも相手になるとな」
〔卯の木や〕の売り子の若いむすめの顎に手をかけ、凄んで引きあげた。
彦十の報せでも、銕三郎は動かなかない。
だが、3番目の風音で、決心した。
(間違いない)
それは、小島町裏長屋で、小浪(こなみ 32歳)の髪を結い上げながら、お品(しな 23歳)が、
「いつ、鬼怒川の湯からお帰りでした?」
はっと気づき、
「きのう」
「では、これからは、ずっと舟着きの茶店に?」
「ほかに行くところ、あらへん」
小浪の返事に、お品がうなずいた。
おかしい、と猪牙(ちょき)舟をしたてた小浪自らが、高杉道場へやってきた。
「小浪どの。すぐに手くばりしますから、このまま、茶店へ行って居てください」
稽古を切りあげ、屋敷へいそいで帰った銕三郎が、筆頭与力・村越増二郎(ますじろう 50歳)にことの次第を告げた。
急使が神田橋ご門外の中野組の役宅へ飛ぶ。
陽が落ち、渡しの終(しま)い舟が綱で桟橋の杭につながれたのをみすかし、茶店〔小浪〕の裏手に着いた2艘の小舟から数人が降り、横の避難口から入った。
入れ替わるように抜け出たおんな2人が乗りこむと、小舟は川上へ漕ぎ去っていった。
1刻(時間)ほどのち、闇のなかを小舟が御厩河岸の舟着きの隣りの桟橋---料亭〔片蔵屋〕専用のそれに着くと、数人が瀬戸口から中へ消えた。
五ッ(午後8時)、蔵前通りから河岸口の路地へ入ってきた数人が、〔小浪〕の潜り戸をたたいた。
待ちきれないで押すと、桟がおりて戸締りされている。
とみるや、足で数度蹴り、戸は音をたてて内側へはずれた。
龕灯提灯(がんとうぢょうちん)をつきつけるようにはいっていった先頭の男があげた、異様な声。
「げっ」
つづこうとした男は足をとめたが、引きずりこまれ、これも悲鳴。
異変と気づき、外に残っていた3人が引きかえそうとしたとき、〔小浪〕の向かいの料亭〔片蔵屋〕からあらわれた4人が長十手を構え、
「火盗改メだ。手むかいすると打ちすえる」
それでも、曲者たちは匕首(あいくち)をつきだしてつっかかっていったが、あっけなく倒されていた。
〔片蔵屋〕から出てきたのは、長谷川組の同心筆頭・内山左内(さない 46歳)と雨宮三次郎(26歳)ほか1名、それに銕三郎であった。
蔵前通りを固めていた小者たちが駆けより、たちまち縄をかける。
縛られた襲撃者の中に、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)もた。
小者たちは、別に、蔵前通りにいた見張りを2名捕らえていた。
〔小浪〕で待ち伏せていたのは中野組の同心たちで、侵入した2人は、十手でつよく首筋を強く打たれ、まだ朦朧としている。
「〔衣板〕の宇兵衛。戸じまりしてある戸をやぶったのはまずかった。死罪はまぬがれまい」
田口同心の脅しに、宇兵衛の顔色が失せている。
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