『幕末の宮廷』 因幡薬師
つい最近、発見した史料というのは、下橋敬長『幕末の宮廷』(ワイド版東洋文庫 2007.9.25)である。
じつは、図書館から通常版を借りだして、つぎのくだりを発見し、あわてて、三省堂に問いあわせた。
版元・平凡社にはワイド版の在庫しかないとのことだったので、清水の舞台---やむなく、注文した。
問題のくだり---。
安永の御所騒動は、松原通鳥丸東入町因幡薬師の御堂に、菊の御紋を附けた紫縮緬の幕が張ってあったのを近衛家の家来が不審に思って尋ねたところ、
「朝廷からの御寄進じゃ」
と答えられ、いよいよ不審に思って御主人の関白内前公に伺われたのが発端で、吟味の末、ロ向役人の寄進と判明し、それから段々口向役人の不正矯奢の事実が露顕に及び、とうとう百何人というものが一時に処刑になり、重いのは死刑・流罪、軽いのは追放となって落着を告げた。
これは全く内前公の果断によったので、処刑せられる方では酷くこれを怨み、遠江守などは死刑に臨んで、「誠に心外の至りである、われわれの怨みばかりでもこの後七代近衛家へは関白を遣らぬ」と罵りました。まさかその怨念の為でもありますまいが、内前公の後二代は関白になられず、三代目の忠煕公が関白になられた時、「もう高屋の妄執も晴れたかいなア」と申したようなことです。
これが史実だとすると、女スパイが不正の端緒をつかんだのではなく、公卿(くぎょう)家筆頭の近衛家に近侍していた者が見つけたことから、購入金額の墨入れ(金額加増)が露見したことなる。
諸田さんは、女スパイ・利津(りつ 21歳 初婚)を(高屋)遠江守康昆(こうこん 40歳 再婚・子持ち)に嫁がせ、慈愛の人物のように造形しているが、近衛家への恨み言を読むと、ちょっと違うようにもおもえる。
鳶魚翁と諸田さんは、遠江守を流罪としているが、『幕末の朝廷』は死刑にあげているから、いちがいに信じてはいけないのかもしれないが、露見の端緒はなっとくできるのだが---。
もし、近衛家の家臣が、長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)が西町奉行に在任中に紫縮緬の幕を見つけていたら、手柄は宣雄のものになっており、山村信濃守良旺(たかあきら 46歳=安永3年 500石)はその後、江戸の町奉行の席につけなかったかもしれない。
ことは、鳶魚翁の女スパイものの出典さがしからはじまったのだが、おかしなところに漂着してしまった。
それで、さらに出典さがしがつづいたのだが、その結果は明日。
それよりも、個人的な興味を記す。
ちゅうすけは、幼・少年期を、日本海側の城下町・鳥取ですごした。
それで、一件の端緒となった因幡薬師に関心が湧き、『都名所図会』をあたってみた。
(因幡堂平等寺 『都名所図会』)
鳥取市を貫通している千代(せんだい)川の河口の津が、賀露(かろ)港である。
長徳3年(997)というから1000年も前の平安時代の中ごろか。
因幡国・賀露津の海面(うみづら)に、夜ごとに光るものがあった。
国司・橘(たちばな)行平(ゆきひら)卿が漁人に命じて網をひかせたところ、身の丈6尺2寸(186cm)の薬師仏があがった。
7年後の長保(ちょうほう)5年(1004)4月7日に、行平卿の居館の烏丸(からすま)高辻に忽然と飛来してきたという。
4月7日というのが、なんとも憎いではないか。
そこで館を仏閣につくって安置したのがはじまり。
代々の天子の厄年には毎日勅使が薬師詣でをして祈祷を捧げたともいわれている。
で、後桃園天皇の安永3年(1774)は17歳、なにかの厄だったのであろうか。
それを口実に、賄方役人・飯室(いいむろ)左衛門大尉たちが菊花の紋章入りの紫縮緬の幕を奉納、その購入代金を10倍にも水増ししたりしたのであろうか。
(山村信濃守良旺の個人譜)
【ちゅうすけ追記】2009年9月28日の[MIXI の日記]
がん封ジお守り
「赤は安産、青は開運、紫はガン封ジでございます」
お守りの布の色である。
聞いた瞬間、義兄の顔が浮かんだ。
彼は83歳で、手術できない部位に膵臓がんが発見され、余命数ヶ月と宣告されている。
場所は、京都市下京区松原通烏丸東入ル 因幡堂町728
因幡薬師の本堂前。
解説してくださったのは、大釜住職の夫人(あとで話してわかった)。
もちろん手遅れだし、快癒はすまいが、その日までの義兄の心の支えになればと、500円を献じた。
と、夫人は、そのお守り仏前に供え、鐘をうち、念仏をとなえ、祈願してくださったのちにぼくへ手渡し。
これまで、100ヶ社寺ほどでお守りを請いうけたが、祈念してからわたされたの初めてである。
因幡薬師へ参詣した次第は、
『幕末の宮廷』 因幡薬師
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/09/post-85ec.html
[御所役人に働きかける女スパイ](3)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/09/3-5be3.html
ブログ 鬼平がらみの取材の1行程。
もし、がん告知をされている近親者やご友人に贈るなら、
祈念料と郵送料こみで1000円も送れば、手配してもらえようか。
★ ★ ★
[命婦(みょうぶ)、越中さん]
『翁草』 鳶魚翁のネタ本?
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コメント
あ、そういう史料だったんですね。
すると、鳶魚老は、なにをみてお話しをつくったんでしょう?
それにしても、ちゅうすけ先生の執念はすごい!
投稿: 左衛門左 | 2009.09.23 05:14
>因幡薬師の御堂の菊の御紋を附けた紫縮緬の幕>が発端だったのですか。
因幡薬師堂のある平等寺へは3,4年前に行きました。
石清水八幡宮へ初詣した帰りに京都で泊まホテルの近くだったので何気なく寄ったのです。
毎月8の日は境内で「手作り市]が開かれて賑わっており手作りの品を買い今でも大切に使っています。
あの場所が舞台だったなんて。興奮しちゃいます。
又因幡薬師さんへ行きたくなりました。
江戸が舞台だと思った長谷川平蔵も京都に随分縁がありますね。
投稿: みやこのお豊 | 2009.09.23 12:54
>左衛門佐 さん
『幕末の宮廷』は記憶語りですから、完璧な史料とはいえませんが、ほかの語りはけっこう緻密ですから、大きくは間違ってはいないでしょう。
因幡薬師の戸張から足がついたってことは間違いないようです。
おかしい---というので、2店の呉服屋の番頭に見積もらせ、納入伝票がその10倍になっていたことから、芋づるだったといいます。
これが端緒だったというのなら、うなずけます。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.23 14:30
>みやこのお豊 さん
何百人と処刑された事件らしいので、『幕末の宮廷』の述者・下橋敬長翁も言い伝えを記憶していたのでしょう。
鳶魚翁は、原典をあかしていないので、敬長翁のほうを信ずるしかありません。
それにしても、お豊さんの足跡は、いたるところについていますね。感心します。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.23 17:24
初めて書き込ませていただきます。
今更な書き込みではありますが・・・
以前、安永三年の御所役人の不正にかかわる事件のあったことを知り、興味を覚えいろいろ調べていた者です。
この事件の正確な判決は「御仕置例類集」という文献に書かれているのでご参考になろうかと思います。私は、これを国会図書館に行って閲覧させてもらいました。
高屋遠江は流罪が正しかったと記憶しています。
(あいにく引っ越し後でコピーした資料が見つけられませんが)
その他、京都側の史料として「続史愚抄」(吉川高文館)も参考になると思います。
この事件より少し後の時期に柳原紀光によって編纂された、いわば朝廷版の「徳川実紀」というべき書物です。
これによると安永二年の十月にはすでに御所役人たちの逮捕劇は始まっておりました。
そして、翌三年の八月には判決。(逮捕~判決が一年足らず、これは早いような気もしないではないです)
山村信濃が京都奉行に着任して、すぐに当事者の逮捕が始まっていたことになるようで・・・山村信濃が密命を帯びて着任して、いろいろ捜査して、というのでは十月の逮捕劇に間にあったのだろうか、もっと前から調べていたのではないか、とも思えます。
もうひとつ、「御仕置例類集」には別件の判決として扱われている判決ですが、明らかに御所の不正と絡んでいると思われる判決が同じ安永三年に出ておりました。
「京都代官」の配下のものが処罰された件ですが・・・「本来、御所の必要経費は禁裏付の署名のないものは支払いをしてはならないはずなのに、賄頭の署名のものに支払いをしていた」と、罪状について書かれていました。
古文の専門知識を持たないで我流で読んだので正しいか自信はありませんが・・・
禁裏の不正のすべてに京都代官のこの支払いが絡んでいたわけではないとは思いますが、これは不正のかなりのウェートを占めていると思われます。
この禁裏付の署名がないのに、地下官人に費用を支払った京都代官の配下の者たちは、単なるミスでやったのか、それとも地下官人たちと結託して一部リベートなどを貰っていたのか、これは気になるところです。
投稿: asou | 2010.01.05 11:55
>asou さん
ご教示、ありがとうございます。
『御仕置例類集』はほとんど゙全巻所有していますから、あとで安永3年をあたってみます。
山村信濃の件、調べなおす必要がありそうですね。
投稿: ちゅうすけ | 2010.01.05 17:52
ご丁寧なレス痛み入ります。
御仕置例類集を所蔵されているとはさすがです。コピーを見つけましたので、私が見つけられた限りの判例の通し番号を記載します。もしかしたら漏れがあるかもしれません。
361番、1371番、1424番、1460番(1460番が一番主だったもののようです)1600番、1999番(361番と重複?)
別件として出された京都代官、小堀数馬手代への判決が1609番
>これは全く内前公の果断によったので、
>処刑せられる方では酷くこれを怨み、
>遠江守などは死刑に臨んで、
>「誠に心外の至りである、われわれの怨
>みばかりでもこの後七代近衛家へは関白
>を遣らぬ」と罵りました。
>まさかその怨念の為でもありますまが、
>内前公の後二代は関白になられず、
>三代目の忠煕公が関白になられた時、
>「もう高屋の妄執も晴れたかいなア」と
>申したようなことです。
この部分、少し気になったので、調べたのですが、内前公の子息経煕公、孫基前公と二代続けて三十代の比較的、若くして亡くなっていることが原因だと思われます。
基本的に関白に就任するのには、通常、四十を過ぎていることが多く、若くして関白に就任している場合は、他の摂関家の当主が揃って亡くなって代替わりしたばかりで、他に人がいない、または朝廷内の別格の事情があった場合などがあるようです。二代続けて、若死にしたのがたたりだと公家社会で考えられていたのでしょうか?
下橋敬長翁が一条家に仕えた方で、近衛家となにか、確執のようなものが摂関家同士の間でもあったものか、も気になるところです。
投稿: asou | 2010.01.06 14:32
たびたび失礼します。
処罰された地下役人たちについては、「続史愚抄」と合わせて、「地下家伝」が参考になると思います。
地下家伝は所属している図書館が限られてきますが、国文学研究資料館のHPである程度しらべることができます。↓
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CKDDefault.exe?DB_ID=G0035938ZigeHaga&GRP_ID=G0035938&DEF_XSL=default&IS_TYPE=csv&IS_STYLE=default
高屋遠江に関しては、安永三年九月二十八日に亡くなったことになっています。
地下家伝は地下官人たちの家系について、各家に由緒というか歴代の当主の位階について書き出してもらったものをまとめたもののようで(寛政譜のようなものでしょうか、完成度は寛政譜に及ばないですが)、必ずしもすべて正確でない可能性もありますが・・・この地下家伝の高屋の死亡が安永三年九月というのを信じるならば、判決自体は遠島だったのに配流先で、あるいは配流を待つ間に亡くなったということになるのでしょうか。判決後間もなく亡くなったため、遠島だったのに死罪になったものと間違って語り伝えられたのではないでしょうか。
ちなみに高屋家の歴代当主を国文学資料館のデータベースで見た限り、高屋家は代々娘に婿を取り、養子に跡を継がせている家系のようです。高屋遠江康昆も先代の娘の婿養子という形を取って跡を継いでいるようです。次の代の高屋康博の養父が康昆で養母が家〔康忠〈い〉〕女となっていることから、康昆は康忠の養子なので、康忠の娘と結婚し養子として入ったと推測できます。
ですので、仮に中井清大夫が姪を嫁がせて隠密働きさせたとしても、その相手は高屋ではないということになると思います。
もっとも、最近私は幕府方が女性を使って、御所役人と結婚して情報を探らせたという話自体、なかったと考えるようになりましたが。
投稿: asou | 2010.01.07 13:18
>asou さん
地下官人の汚職、お蔭さまで、ますます盛りあがりました。
じつは、持病の歯痛で、きょうも1本抜歯に行っており、レスが遅れ、申しわけありませんでした(私ごとは、なるべく書かないようにしているのですが、今回はお許しください)。
ご教示の史料、そんなわけで、まだ確認していないのです。申しわけありません。
お教えいただいたものは、できるかぎり、追認するつもりでおります。
ぼくも、因幡薬師の記事を読み、近衛家の家士の話は信じられそうと思いました。
だって、鳶魚の記述には、潜入した女スパイが得た手かがりが書かれていませんもの。証拠もつかまないスパイなんて、おかしいです。
歯痛が快癒しだい、動きます。少々、お待ちください。
ほんとうにありがとうございます。お蔭で、このブログの格が1段か2段、あがりました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.01.07 15:59
お気遣いただき恐縮です。
歯の方御大事なさって下さい。
(私もそろそろ歯医者に行かなければ・・・)
>だって、鳶魚の記述には、潜入した女ス
>パイが得た手かがりが書かれていません
>もの。証拠もつかまないスパイなんて、
>おかしいです。
もうひとつ、女スパイの話で事実とちがっていることがわかりました。
肝腎の中井清大夫の経歴に「徒目付」がなかったことです。
目付時代の山村信濃の配下に徒目付の中井清大夫がいて、禁裏役人の不正を追及していた、という仮説が否定されたのです。
中井清大夫については、
「よしの冊子 二」の(「日本随筆百花苑」の八巻か九巻か記載を忘れてしまいましたが)、59頁にもいろいろ書かれています。
真偽のほどが確実でない噂話の集合体なので話を割り引くとして、
「中井清大夫は大和国百姓の二男で、江戸へ来て御徒になった。京都の禁裏の御勝手役人に清大夫の伯父がいて、この伯父から内々に京都役人の私曲を聴きだし、これを幕府へ密告、その伯父の首も切らせて、その功績で代官に出世した。もっとも伯父の子を引き取ったらしいが・・・(以下略)」
これによると、中井清大夫は元は御徒であって徒目付ではなく、また、上方の出身であり、鳶魚翁の記述とは別バージョンの話で、禁裏役人の不正追及に関わっていたと思われていたことが興味深いです。
これだけでは実在の中井清大夫の前歴が徒目付だったか、御徒だったか断定はできませんが、後にもっと確実な史料で彼の経歴が御徒であったことが確認できました。
同時代の幕臣の隠居である小野直賢という人が延享2年(1745)から安永2年(1773)まで、幕府の令達や人事等の記事に加え小野家の日々の生活を記録した日記である、
「官府御沙汰略記」という史料です。
この存在を知ることができ、それにより
中井清大夫は、御徒から支配勘定にとりたてられ、勘定方の中で段階を踏んで出世して、安永二年の御所役人の逮捕劇が起きた時点では「御勘定」であったこと(偶然か
鳶魚翁の記述でも、京都に「御勘定の格式で乗りこんできた」ことになっていますが・・・)が確認できました。
かなり有能だったのか、御徒身分から勘定方へ登用され出世も比較的早かったのでしょう、他のライバルや御役につけない御家人たちの妬みを買っていたのかもしれません。それでやっかみ半分で根も葉もないうわさを流されてしまったのではないでしょうか?
下橋翁の講話とこの「よしの冊子」の中井清大夫に関する噂と翁草をミックスすれば、鳶魚翁の女スパイ話ができあがるかもしれません。
投稿: asou | 2010.01.08 10:11
>asou さん
つぎつぎと史料のご提示・ご教示、ありがとうございます。
『よしの冊子』(中央公論社版『随筆百花苑 第八巻、第九巻 1980.11.20,81.1.20)は、さいわい手のとどくところにあのましたので、確かめてみました。第八巻[よしの冊子 二]のとっぱなに、ご指摘の文がありました。
また、同[十一]の寛政8年8月24日の終わりに近いあたりに、中井清大夫が飛騨代官をしくじったような記述がありました。
『よしの冊子』は長谷川平蔵の記述が200箇所ほどあるので求めましたが、当時は地下役人の不正には気がまわっていなかったので見過ごしていました。
あらためて、この事件につき、お力を借りて、『よしの冊子』を紹介する機会をつくりたいとおもいます。その節はご援助くださいますよう、いまからお願い申しあげておきます。
いろいろ、ありがとうございました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.01.08 13:24
たびたびの投稿すいません。
下橋翁の講話で出てきた、「近衛家の家来が紫縮緬の幕に不審を覚えた」のくだりで考えたのですが・・・
>で、後桃園天皇の安永3年(1774)は1>7歳、なにかの厄だったのであろうか。
逆に、この年、「天皇は厄年ではなかった」のではないでしょうか?
安永三年ではなく前年の、安永二年以前のことになると思いますが・・・
私は最初、いきなり「菊のご紋の紫縮緬の幕」(鳶魚翁によると御戸帳)になぜ不審を覚えたのかがわからなかったのです。
幕そのものを見ただけで、水増し請求されたものかどうか、などわからないでしょうし、「朝廷からの御寄進」になぜますますの不審なのかもわからなかったのです。
当時の公家社会では「当然不審を覚えてしかるべきことで説明の必要のないこと」と考えられ、下橋翁もくわしい説明をされなかったものか・・・
因幡薬師は天皇の厄年には、近臣がお参りする習わしになっていたようで、朝廷からの御寄進があって不思議ではない寺院に思われます。
実際、「続史愚抄」にも天皇が厄年により、近臣が因幡薬師に参詣するという記述が何か所かあります。
それでふと考えたのですが、逆に「天皇が厄年ではなかった」時期だったための御不審だったのではないでしょうか?
その年、あるいは少し前に天皇が厄年なら真新しい「菊の御紋の幕」が御寄進されていても不思議ではない。
でも、その年も近い過去にも「天皇厄年による因幡薬師の参詣」がなされてないのに、真新しい御戸帳が寄進されていたため、近衛家の御家来が「おかしい」と感じたのでは?
「続史愚抄」で「天皇厄年による因幡薬師参詣」の記事がこの事件の前後に書かれているか、もう一度確認してみました。
ちなみに先帝・後桜町天皇は女帝であられたためか、厄年による因幡薬師参詣の記事はありません。
先々帝・桃園天皇(当時の帝、後桃園天皇の御父)
宝暦七年 この年天皇十七歳の厄年により
近臣が因幡薬師に参詣する記事 あり
宝暦九年 この年天皇が十九歳の厄年で近 臣が因幡薬師に参詣する記事 あり
宝暦十二年七月天皇崩御
後桜町天皇
宝暦十二年七月より明和七年十一月まで
後桃園天皇 明和七年十一月より~
安永五年 この年天皇十九歳の厄年により 近臣ら因幡薬師に参詣の記事あ り
天皇十七歳と十九歳は厄年により因幡薬師の参詣が慣例のようなので、安永三年ならば、天皇十七歳の厄年による因幡薬師の参詣と御戸帳の寄進はありえたのでしょう。
しかし、実際は、前年の安永二年の十月にすでに地下官人たちの逮捕が始まっていたのですから、近衛家の家臣が因幡薬師の御戸帳を見て不審を覚えたのがきっかけだとしたら、それは安永二年の十月以前ということになります。
安永二年は天皇厄年ではない、十七の厄年である安永三年にはまだ早いし、先帝の御代には因幡薬師の参詣はなかった、それなのに見覚えのない真新しい御戸帳が朝廷から寄進がされていたので近衛家の家臣が不審を感じた、ということだったのではないでしょうか?
先々帝の厄年による因幡薬師詣では、もう十数年前にさかのぼることになってしまいますから・・・
もしまだ御手許に「続史愚抄」があれば、当時の帝、後桃園天皇即位された明和七年十一月から安永二年末までの間に、
「天皇厄年のために近臣が因幡薬師に参詣した」記事が「記載されていないこと」をご確認願います。
この推測が正しければ、公家社会の人でなければ因幡薬師の御戸帳を見ても不審を感じることはなかったのではないでしょうか?
ちなみにその後、安永三年は本来天皇十七歳の厄年のために近臣が因幡薬師に参詣した記事が載っているべきですが、なぜか記載が見当たりませんでした。
二年後の安永五年には十九歳の厄年による参詣の記事があり、また父君桃園天皇の
宝暦七年、宝暦九年にはそれぞれ十七歳と十九歳の厄年による参詣の記事が見つかりましたのに・・・
投稿: asou | 2010.02.01 10:04
>asou さん
お問い合わせいただいた安永2年(1773)の『続史愚抄』のコピー、やっとしまい場所からみつけました。
10月15日の官人の処分の件はコメントいただいていたからよろしいですね。
厄年のことは不記載ですが、
3月22日この3日、主上疱瘡でお悩み
6月16日主上御年10歳内祝い
これよりも、関連ありそうなのは、
3月5日因幡堂本尊薬師開帳始まる。これは100日間。
このための戸帳の新潮だったのでは?
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.06 14:54
>3月5日因幡堂本尊薬師開帳始まる。こ>れは100日間。>このための戸帳の新潮だったのでは?
この部分は気になりましたが、御開帳のために戸帳を新調したのなら、その場合は御寺が独自に自分の財源でやるのが筋で、
「朝廷から御寄進されたもの」という答えが返ってくるはずがないような気がします。
この不正のキモは地下官人がなにか物品を寄付して、その代金を業者に水増し請求させて水増し分を山分けすること、なのでなにか高価な品物を購入して、いろいろな御寺社に寄付する必要がある、ってとこなのだと思います。
時期的におかしい御寄進であっても無理やり行って、経費の水増しするチャンスを増やしたいというのが犯行側の立場でやりすぎてしまってばれたということだったのかな、と考えたのです。
で、近衛家の家来が因幡薬師の戸帳を見て不審に思った時期ですが、「安永元年のことだった」とする本もあったりで、(ただし出典の記載がない)そうなると御開帳のための新調、にしても早い気がします。
読んだ本の名前ですが奥野 高広著「皇室御経済史の研究」もしくは、ねずまさし「天皇家の歴史」の歴史のどちらか、だったと思います。
(「天皇家の歴史」の方は市内の図書館で借りられるのですが、「皇室御経済史の研究」の方は県内になさそうです・・・どうしよう・・・)
読んだときは、続史愚抄の役人名(源平藤橘プラス諱)と御仕置き例類集の通称と対応させるために読んだんですが、「地下家伝」と一致しない部分があってこっちも気になってます。
それと近衛家の役人が因幡薬師に不審をもった安永元年だったという記述の話の出所にも・・・お公家さんの日記かなにかに別に記載されていたものか??
下橋翁の「幕末の宮廷」も「皇室御経済史の研究」の出典にはのってはいましたが、
発端になったできごとがいつだったか、下橋翁の講話にはなかったと思いますし。
安永二年十月より前なのだろう、ということになりますが、どれくらいさかのぼるのでしょうか・・・安永元年説は少し早いような気もしますし・・・
投稿: asou | 2010.02.06 16:52
>asou さん
『幕末の宮廷』P283の記述は、
安永の御所騒動は、松原通烏丸東入町因幡薬師の御堂に、菊の御紋を付した紫縮緬の幕が張ってあったのを、近衛家の家来が不審に思って尋ねたところ、「朝廷からの御寄進じゃ」と答えられ、いよいよ不審に思って御主人の関白内前公に伺われたのが発端で、吟味の末、口向役人の不正と----
ということで、(何十年ぶりの開帳というので参詣してみたら)天皇の厄年でもないのに「菊花」の紋をつけた戸帳があったので----と考えると、おかしいという取調べになったのではないでしょうか。
もちろん、下橋敬長氏の口述は、100年ほども後年のものですから、こまかなところでは、齟齬がありましょう。
しかし、開帳があったこと、菊花の戸帳が張られていたこと、その年の10月には第1弾の処分があったことと考えていくと、多くの部分で合点がいくといえませんか。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.07 07:51
ありがとうございます。
下橋翁の話で細かい説明がはぶかれていたので、今一つこの近衛家発端説にのりきれていなかたのが、そう考えると、すっきり腑に落ちてきました。
ご開帳が、安永二年の三月から百日間、その間に近衛家の役人が御戸帳を目撃、で、逮捕劇はその年の十月、符合しますね。
その後、続史愚抄の安永三年八月に役人たちの処罰について書かれていた後に「近衛関白が倹約について厳しく監督するようになった」ような記述がありました。
これもセットで考えると興味深いです。
こういった事件の発覚から処分決定の過程に詳しくはないのですが、
一、容疑者逮捕から判決まで一年足らずは早いのではないか
二、死罪になったのは四人だけというのは
割と寛大なんじゃないか
三、処罰されたのは地下官人までで堂上公家や女官がいない(勘ぐりすぎかもしれないですが、こういった上の立場の人ってなんらかの利権に絡んできそうな気がするのですが)
この三件が少し気になっていて、で、想像なんですが、もしかして近衛関白と幕府の上の方で取引みたいなのがあったんじゃないかって気がしてきました。
↓こんな感じでしょうか・・・
処分はなるだけ限定的に、死罪は最小限に、その代り、禁裏にかかる費用の節約に積極的に協力する。
当時、幕府は明和八年四月に発令された五カ年の倹約令の真っ最中、これは将軍家治公を日光参詣していただく費用の捻出のためだったそうですが(こちらでも紹介されていた佐藤雅美「主殿の税」によると)で、幕府は、この際、禁裏の費用を減額したかったところであり、それで手を打ったのではないかって気がするのですが・・・
高屋が近衛公を恨んだという伝承はもしかして、自分たちだけがトカゲのしっぽ切りのように処罰されるのが納得いかなかったからではないかとも思えてきました。
投稿: asou | 2010.02.07 08:59
>asou さん
きのうは、静岡の月1の[鬼平クラス]の講義日で、朝早くからでかけ、帰宅が夕方で、もう、ぐったりで呑んで寝てしい、レスができなくて、失礼しました。老齢には勝てないようになってきました。
安永2年(1773)3月の因幡薬師の開帳に、真新しい戸帳が手がかりになったとすると、この件、半年前に赴任していた東町奉行・長谷川平蔵宣雄の耳に入ったのではないか、町奉行から所司代へつうじたところで、6月12日に病死(戒行寺の霊位簿)、すこしはかかわったかもしれないが天明7年の京都の大火で奉行所の記録消失---なんて、妄想しています。
奉行所の記録がでてくれば、鬼平ファンは大喝采てしょうが。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.08 07:41
天明の大火で随分と焼けてしまったのでしょうね。たしか、因幡薬師自体も焼失していなかったでしょうか。(問題の御戸帳も?)
天明大火以前の因幡薬師は随分、広い境内だったようですね。
この件に前任の長谷川奉行が気付く、ならば、銕様に三月の御開帳を見物していただいて、そこで、近衛家が因幡薬師の僧と問答する現場を目撃してもらうというのはどうでしょう?それを父君に報告(なにせ配下の与力同心は地役人なのでこの件の調査には使えない)、所司代へ・・・
幕府方がうすうす禁裏の地下官人の不正のからくりに気付きだす、近衛公が取り締まりの先頭に立ったのは、あるいは「先手を打つ」ためだったのかも・・・
公家方や地下官人たちの目には、近衛公が幕府の機嫌を取ってるように見えたかもしれないですが、幕府がすべての確証をつかんで、関係者の捕縛を始めたらもっと朝廷側の傷が大きくなる、それくらいならいっそ、その前に自分の手でと。
投稿: asou | 2010.02.08 13:12
お知恵づけ、かたじけなく。
銕三郎を、因幡薬師の戸帳の件にかかずらわすには、禁裏方の武家伝奏の氏名も承知しておく必要がありそうです。
これから『続史愚抄』などをくって確認するとなると、またまた、大変なリサーチになりそうなので、とりあえず、構想の一つとして保存させていただきます。
話としては、面白いのですが。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.08 15:08
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/tensou.html
広橋兼胤(36)寛延3年(1750)6月~
安永5年(1776)12月
姉小路公文(48)宝暦10年(1760)10月~ 安永3年(1774)10月
裏取りがまだですが、安永二年~三年にかけての武家伝奏は広橋兼胤卿と姉小路公文卿のようです。ただ、手元の「続史愚抄」の安永三年の十月分に姉小路卿から油小路隆前卿に交代した記事が見つけられません・・・「徳川実紀」もしくは「公卿補任」などになるのでしょうか・・・
兼胤卿はかなり高名な武家伝奏だったらしく、いろいろな年表の記事の出典に兼胤卿の日記が使われているようです。
「八槐記」と日記のようですが、まだ目にしておりません。また、武家伝奏時代の公務について書かれた「広橋兼胤公武御用日記」という形でも刊行されているようなのですが、こちらは、見たところ宝暦年間の分しか出ていないようです。
「楠の実が熟すまで」の導入部で、ヒロインを御所役人に嫁がせる口利きをするのも
武家伝奏広橋家でしたね。
武家と公家の両方に顔が利く、羽振りのいい武家伝奏の口利きなら・・・という流れだったのでしょうか。
投稿: asou | 2010.02.08 16:12
>asou さん
またまた、ご教示、ありがとうございます。
幕府側の禁裏付が2人なので、公家方の武家伝奏も対応するかのように2人なのですね。
ブログには、武家方は『寛政譜』により、いちいちそのときの年齢を挿入しています。
武家伝奏の年齢を知る方法がありましょうか?
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.09 10:23
私も使いこなしたことがないのですが、可能性があるとしたら、「公卿補任」
「公卿諸家系図: 増補諸家知譜拙記 」あたりでしょうか。(幸い、市内の中央図書館にある模様)
明日あたりは、図書館に通う時間が作れるかもしれませんので、確認したいです。
公家諸家系図はどうも寛政譜と似た作りになっていると期待したいところです。
ネット検索しただけ、でまだ裏は取っていませんが、安永三年時点で姉小路卿が62歳、広橋卿が60歳くらいのようです。
この二年後に広橋卿も交代になっているので、年齢的にこれくらいが目安だったのでしょうか。
面白いのは、寛政五年に当時の伝奏が二人ともやめて交代になっているのは「尊号事件」の関係でしょうか。
寛政譜たどっていって気になったのが、木村周蔵光休(第二十巻 173頁)です。
「明和八年十二月に御普請役にめしくわへられ、そののち勘使買物使となり、京都御入用取調役に転じ、支配勘定に准ぜらる。
天明八年九月十日班をすすめられて禁裏の御賄頭となる。」
御所騒動のあった直後に導入された禁裏の会計に関する幕府からの出向者、しかも御普請役あがり・・・
清大夫の娘の嫁いだ益田家からたどっていって行き着いた先で「京都御入用取調役」にいきあたるとは・・・
投稿: asou | 2010.02.09 12:17
>asou さん
「公卿諸家系図: 増補諸家知譜拙記 」、近くの図書館に問い合わせてみます。都の中央図書館にはあるでしょうが。
手元の『柳営補任』の索引をあたりましたが、京都関連で記録されているのは、
守護職
所司代
代官
町奉行
身廻役とその組頭
禁裏付
以上でした。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.09 13:37
『柳営補任』にはある程度の役職以上でないと、載っていないかもしれないですね。
若林義籌の経歴を調べるのにも田安家用人以前をさかのぼるのに、「武鑑」を使いましたから。(文政元年から田安家用人、それ以前は文化十三年から田安家の「勘定奉行」、金庫番?)
禁裏の賄頭は一応、お目見え以上ですが、「京都御入用取調役」と「勘使買物使」はお目見え以下です。
もともと賄頭と勘使買物使は、プロパーの地下官人がやっていたのですが、この事件をきっかけに、幕府の勘定方から出向者を送り込むようになったようです。
「徳川実紀」安永三年八月より引用します。↓
此月禁中取次以下の賎吏罪ありて刑せらる。よて京町奉行山村信濃守良旺。禁裏附天野近江守正景等に令せられしは。禁中吏人等風儀宜しからず。私曲を元よりの仕来りと心得。不法のこと共多きよし聞ゆ。この後は両人相はかりて。これ等の旧弊をあらため。吏人等仕ふるさま正しからんやうにはからひ。禁中費用の事は。所司代より出るしなじな。良旺。正景に達し査検して。思ひよる事あらば申達すべし。『こたび府より禁中賄頭壱人。勘使。買物使を兼る者二人をつかはさる。良旺の属吏三人をして費用を検せしめ。勘定奉行所属京都取調役二人つかはさるれば。良旺。正景手に属し。指揮して。万事収束せんやうはからうべしとなり。』
『』で囲われた部分が今回の禁裏賄頭、勘使買物使、京都御入用取調役の設置に関する記事です。禁裏付の配下になるようです。
地位がさほど高くないので、誰が任命されたか、までは書かれていませんが、こういう役職の人たちの人事異動って調べるのは難しいですね。
投稿: asou | 2010.02.09 15:23
いつかもコメントしましたが、asou さまとちゅうすけ さんの、組木刀の稽古をおもわせる丁々発止、わきで見ていてわくわくしてきます。
コメント欄ではもったいない、本欄へ移す工夫はできないものですかねえ。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.02.10 09:16
武家伝奏について、返事が遅れてすみません。
「公卿諸家系図: 増補諸家知譜拙記 」が中央図書館の所定の場所になく、職員の方に「他の利用者が使っているのではないか」と言われましたが、閉館時間間際になっても戻されなかったため結局確認できずじまいでした。職員の方に「所定の場所に戻っていなかった」ことを伝え、所在の確認を太謨見ましたが・・・史料紛失とかじゃなければいいんですが・・・
「公卿補任」「群書系図部集」には各公卿の年齢は確認できるのですが、武家伝奏の任免については確認できませんでした。
「徳川実紀」にも「続史愚抄」にも見当たらず、あとは「古事類苑」くらいしか・・・(「国史大辞典」でも出典のリストにのっていましたので)
これは大本はおそらく「御湯殿の上の日記」や武家演奏を務めた公卿本人の日記をもとに作成されているようです。
「国際日本文化センター」のHPで一部を除いただけですが・・・
兼胤卿の前任者の久我通兄卿の日記も少し前の時代の史料として使われているようですので・・・
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/kojirui.html
これは想像ですが、
武家伝奏は実質的にうまみはあるけれど、名誉な務めとは朝廷内では考えられていなかったんじゃないかという気がしてきました。
重要なポストで役得もありそうですが、武家に関わるのがイヤなんじゃないか、とも。
下橋翁「幕末の宮廷」を読み直しているのですが、241頁に「実子」と「養子」の違いについて説明するくだりで(五行目)
また摂家の二三男が清華家」へ養子にいって、その家を相続せらるると、朝廷の宿番はもちろん、議奏・伝奏の両役を免ぜられ、(以下略)
とあり、大納言相当の公卿が務める慣例ではあるが、摂関家の方がやるべき職務ではない、という位置づけであることうかがわれます。
他に「幕末の宮廷」には口向役人関係についても144頁からまとまって記述されていますが
特に151頁末尾の「朝廷の用命」についての部分には伝達ルートについてうかがわれる記述があり興味深いです。
また、幕府から派遣された「禁裏賄頭」「勘使兼買物方」についての記述も155~156頁、309~310頁に書かれていました。
これによると賄頭は「徳川さんよりの御附人」で一人もしくは二人多くは一人で旗本の格式、勘使は四人いるうちの二人が「徳川さんの御附人、御家人」、残る二人は元からの地下官人のようです。
「徳川実紀」の安永三年八月から幕末まで引き続いていたことがうかがわれます。
「京都御入用取調役」についての言及がなかったのは、おそらくこの職務の役人は御所に詰めるのではなく、帳簿や伝票などを確認し、妥当な予算を設定する職務なのではないか、と想像しております。
投稿: asou | 2010.02.12 11:16
>asou さん
それはたいへん失礼しました。
家の近くの区の図書館に頼んだら、中央図書館から取り寄せたと、さっき電話があり、あす、館内閲覧に行く予約をいれました。
無駄足させてごめんなさい。
たぶん、あすには、返却できるとおもいます。
それにしても、借り出し、パソコンで分かるはずなのに。
紛失ではありません。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.12 14:14
無駄足にはなっていませんので御気づかいなく。
中央図書館といっても広尾の有栖川のことではなく居住市の中央図書館ですので・・・
紛らわしくてごめんなさい。
今、私が住んでいるのは、非首都圏の地方都市です。
(国会図書館に行けないのは不便です。最後の頼りは結局あそこなので)
先日も、他にも調べたいことがあって、図書館へ行ってますので、無駄足にはなっていません。
「公諸家系図」は図書館PCの上では館内に存在することになっているのに、所定のあるはずの場所になかった、ということなので、どなたかが借り出しているわけではなく、市の図書館側の管理の問題なのか、誰かが所定の場所に戻していなかったか、だと思います。
武家伝奏の任免記事を調べるのは結構厄介だったんですね・・・朝廷も幕府も正規の歴史書に載せないとは・・・
前のレスで描きもらしましたが
両伝奏の生没年は
姉小路公文 正徳三年正月二十六日~安永六年十一月二十九日
広橋兼胤 正徳五年十一月十八日~天明元年八月九日
(「公卿補任」による)でした。
公卿補任も「群書系図部集」も二位とか大納言とかの叙任記事はあっても「武家伝奏」の任命記事は積極的に書こうという感じがない、印象を持ちました。
投稿: asou | 2010.02.12 17:39
>asou さん
すでにお調べずみとおもいますが、都の中央図書館から区の図書館へ貸し出された『公卿諸家系図: 増補諸家知譜拙記 』(続群書類従完成会第6刷)を覗いてきました。
広橋勝胤(兼胤あらため)は、安永3年で60歳・850石でした。
姉小路公文の没年は記載されていません。公文からいみなが変わっており、父は30代で逝去していますから、養子ではないでしょうか。
彼の歿前後の『実紀』には、そのことも後任のことも記載されていません。
関連ですが、
翌年1月5日の項に、
京町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)こたび 大内其他の御所。すべて浮費省約せるをもて金五枚。時服四を給ふ。旗奉行天野近江守正景に 禁裏付たりし時。同じく其事をつかさどりしをもて金三枚。時服三をたまふ。
ずいぶん、気のぬけたころの褒賞です。
(巻10 P558)
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.13 15:04
武家伝奏の任免記事ですが、「続々群書類従2 史伝部1」所収の「伝奏次第」
にまとめられているようです。
「古事類苑」には「武家伝奏次第」よりの引用としてまとめられていました。
「続々群書類従」となると所蔵している図書館は限られてしまいそうですね。
↓
【伝奏次第】慶長八―寛政五年に武家伝奏となった人の任免没の年月及び在職年数等を記した書
http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/bookfind.cgi?cmd=d&mc=m&kn0=20&ks0=4-7971-0131-8&pr=&kw=11
間にあわせのようになってしまいますが、孫引きの「古事類苑」によると
廣橋大納言 兼胤卿 在役廿七年
寛延三年六月廿七日為代通兄卿、安永五年十二月廿五日辭、同年同月同日任准大臣
姉小路大納言 公文卿 在役十五年
寶歴十年十月十九日為代光綱卿、安永三年十月十八日辭
広橋卿は相当、武家伝奏として有能だったのでしょう、武家伝奏を離職してその日に准大臣というのは名家(晩年に「例外的に大納言になれる」家格だそうです)の広橋家の格から言って相当評価されたのではないか、と推察します。
古事類苑には「兼胤公紀」(准大臣なので「兼胤公」になるということでしょうか)より、寛延三年に武家伝奏に任じられたこと、その四日後に所司代の役宅に「誓書」を提出したことが記載された部分が引用されていました。
「誓書」のあて名は時の老中四名と所司代で、内容の控えも書き留められていて、最後は「血判」署名してありました。
従二位の大納言(権大納言?)に老中相手に血判署名つきの誓書を提出させるのは、やはり公家にとっては屈辱なんでしょうか。
投稿: asou | 2010.02.14 12:59
連投すいません
>ずいぶん、気のぬけたころの褒賞です。
この褒賞の記事について気になったのは、
寛政譜の山村信濃、天野近江の項目に記載されていなかったことです。
こういった功績をあげて、金や時服を賜ることって大変名誉なことですから、その人の事績に必ず載せたいことのはずです。
天野近江については、そのため金や時服を賜ったことが寛政譜に一切のっておらず、山村信濃については日光に宮様をお連れしたことで金五枚を賜ったこと、本所洪水のときに金七枚、時服三領賜ったことのみ記載されています。もしかして御所騒動で功績をあげたことを誇れない、そんな政治情勢になっていたのか、気になっています。
褒賞の時期が遅いことですが、これは推測なのですが、御所の不正経理を暴いて地下官人を検挙したことよりも、「経費を節減できた」ことを幕府が評価した、からではないかと。期待した以上に経費を節減できたのではないでしょうか?
佐藤雅美「主殿の税」によると、家治公に日光参拝していただく予算を確保するために明和八年四月に五カ年の倹約令を発しており、御所騒動はまさにそのさなかに起きております。
「徳川実紀」明和八年四月には「公卿。門跡。其他の寺社ども。拝借願事あれども沙汰に及べからず。」とまで書かれており、これって拡大解釈すると御所方面の経費も節約させろってことになりませんか?
(文章の格調は高いけど、結構身も蓋もない内容ですね・・・)
安永五年に家治公が無事、日光参拝を果たした後に、山村信濃、天野近江が表彰された、ということなのではないか?と。
最初、私は鬼平さんの御父上もこの件の捜査に関わって謀殺されたのか?とか何人も隠密が命を落とした、とかいう事態を想像していたのですが、佐藤雅美さんの本をいくつか読むうちに考えが変わってきました。
明和八年の倹約令、幕府としては、とても倹約しているので朝廷にも協力してもらいたい。朝廷側に言わせると、「そんなものは家治公に日光参拝させたいとかいう徳川方の勝手な都合で、なんでそんなものにつきあわないといけないのだ?」
こんなところから始まったのではないか、と想像するのですが・・・
投稿: asou | 2010.02.14 15:34
>asou さん
山村信濃と天野近江の報償の件が『寛政譜』から落ちているのは、両家が提出した[先祖書](国立公文書館に保存)に記しているかどうかを確かめないと、判断はくだせません。
長谷川家の[先祖書]と『寛政譜』とをくらべますと、多少はしょっているところがあります。
編集グループの判断があったかどうか、[先祖書]を見るまでいえませんが、そこまでやってもたいした結論にはならないようなので---。
長谷川家の場合は、鬼平の父の母親が判明しました。備中・松山藩の馬廻役でしたが、藩のとりつぶしで牢人になった人の娘でした。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.14 17:49
>編集グループの判断があったかどうか、>[先祖書]を見るまでいえませんが、そ>こまでやってもたいした結論にはならな>いようなので---。
そうは思いませんが・・
編集グループの判断だとしたら、それがその当時の幕閣の意向ということでしょう?
山村信濃にとっては他にいくつも金や時服を賜った事例があるので、これ一つ抜け落ちてもどうということはないですが、
天野近江の寛政譜の事績には一切、金や時服を賜った記事がないのです。
いくつかの家の幕臣の寛政譜を集めましたが、金や時服を賜ったことは事績に記載されていることが多いです。
他にそういった褒賞のない天野近江の事績から欠落しているのは不自然に思えます。
本来、誇るべきことがなぜ記載されていないのですか?個人的には、大変気になります。
たいした結論にならない、とはとても思えません。
投稿: asou | 2010.02.14 18:20
遅レスですが、武家伝奏の任免記事について「続々群書類従 第二 史傳部」を借り出してきました。
冒頭の例言(明治四十年一月)によると
一 議奏歴は、延寶六年より弘化三年に至る間議奏となりたる人の任免年月日及び享年等を記し、傳奏次第は一に武家傳奏次第と云ひて慶長八年初めて傳奏を置きてより寛政五年に至る間、之に任じたる四十一人の任免没の年月及在職年數等を記す。以上二書は内閣本に據る。處々缺字等あるも、他に類本を得ざるを以て補ふこと能はず。
とのことです。『他に類本を得ざるを以て』ということなので、武家伝奏の任免についてはこれ以外に一般人が調べる史料はないということになりましょうか。
(当の武家伝奏を務めた公家の日記を一々あたるのが、一番確実なのでしょうが・・・)
安永二年~三年当時の兼胤卿と公文卿の任免記事は古事類苑から引用したものと同様でした。
ちなみに「武家傳奏次第」の末尾に(80頁)
此(前書)一帖者公卿補任或西都職官表(水戸本也月日不註之)等引合正德以後考侘記令書寫畢
とあり、公卿補任(慶長年間には武家伝奏の任免についても記されているようです)や西都職官表(京都のお公家さん版の「武鑑」のようなものでしょうか)を使って作成したもののようです。
最終が寛政五年ということは、尊号事件で二名の武家伝奏が更迭されたのが、あるいはこの史料作成のきっかけかもしれません。
安永年間当時、武家伝奏は議奏(変動はあるけれど大体五名くらいが定員のようです)の中から選ばれるのが慣例になっていたようです。
兼胤卿、公文卿二名も彼らの前任者、後任も議奏から選ばれておりました。
(もしかしたら近世朝廷史や朝幕関係を研究されている方たちの間では常識なのかもしれませんが・・・汗)
投稿: asou | 2010.02.21 12:18
>asou さん
大変な作業、ありがとうございました。
武家方の2名の禁裏付は、東西の奉行所と同じで、隔月に勤めたそうですから、禁裏側の武家伝奏も隔月だったかもしれませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.22 05:39
>ずいぶん、気のぬけたころの褒賞です。
安永六年十二月五日の「徳川実紀」の褒賞の記事ですが、これがなぜ安永六年だったのか理由らしきものが見つかりました。
橋本政宣著「近世公家社会の研究」(吉川弘文館)854頁によると
安永二年(1773)に御所付き役人の私曲事件があり、これにより同六年「御賄御入用御定高」なるものが定められ、経済的安定が図られる。
とあり、また同じ安永六年六月十五日に天野近江が旗奉行に転じています。
「御賄御入用御定高」が決まったという記事は「徳川実紀」では確認できませんでしたが、おそらく天野近江が旗奉行になる六月以前には確定していたのではないでしょうか?
禁裏の費用節減にめどがついたため、天野近江を旗奉行に移動させ、その年の十二月に山村信濃、天野近江を表彰するという流れになったのだと思います。
投稿: asou | 2010.03.01 18:21
>asou さん
なるほど、そういう史料がありましたか。
それにしても、間が抜けたころに---ともおもいますが、山村信濃は、翌年閏7月に勘定奉行に栄転していますから、大抜擢ですね。彼の母は菅沼主膳正虎常のむすめというほうに、ぼくの興味はいくのですが。
菅沼一族はそれぞれ、今川についたり、武田についたり、徳川についたり。
宮城谷昌光さんの『風は山川より』が野田菅沼を書いていらっしゃいます。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.02 15:20
諸田先生の「楠の実が熟すまで」の巻末にのっていた参考文献リストの中にあった李元雨著「幕末の公家社会」を読んだのですが、その中で勢多章甫「思ひの儘の記」という随筆が紹介されていました。
勢多章甫という人は幕末の頃に地下官人だった人で明治になってから維新前の宮廷のあれこれを書いた随筆のようです。
下橋翁と同じような背景を持つ人ですね。
吉川弘文館の日本随筆大成第一期十三巻に所収されていたので図書館から借り出して読んでみました。
この事件に関係ある部分は38頁に少しあるだけなのですが・・・
天皇御璽の文字ある御印は、六七百年以前の文書に捺したる御印なり。中古如何なりにしや、享保年間嵯峨の材木商に用ひしを、高屋遠江守康昆(割註)当時は近沢主税と呼びし。」見受け、其仰を得たりし子細を問ふ。商人桂川より得たる由を答ふ。康昆奇貨たるを知り、速に買取り、伝奏に其事情を述べ献上す。其賞として高屋家相続せしめ、右衛門尉に任ぜらる。後に遠江守に遷任す。御印は内豎兼主鈴の職掌なるを、自宅に預り申すなり。近代迄も渡辺、林両家にて預り、御用の時には持参せる事になれり。
高屋遠江守康昆は執次役を勤めたりしが、奢侈を究め贅沢を尽せり。官金窃取の事発顕し、康昆は魁主たるにより、辞官遠流となる。未だ配所に至らざる前に歿せり。
連累数十人に及び、各流罪、或は追放、或は暇等の処分ありし。此度の処分過酷に過たるとて、近衛関白を痛く怨みたりと、是を安永二年御内の騒動といへり。是より勘使(割註)会計役也。」の職には、関東より幕吏上京し勤むる事になれり。
前の御璽を買い戻した話は「幕末の宮廷」にも出ていましたが、享保年間なら康昆ではなく先代ではないかと思いますが・・・
後の話は高屋は流罪だったけれど、配流される前に亡くなったといことで、地下家伝とも符合すると思います。
亡くなる前に近衛関白を恨んでいたという言い伝えは長く公家社会で語られていたのでしょう。下橋翁の話とも一致しますね。下橋翁は死罪だったと語られていましたが、御仕置例類集の判決や地下家伝と照らし合わせて、この「思ひの儘の記」の内容がほぼ史実と考えていいと思います。
投稿: asou | 2010.04.14 15:29