京都町奉行・備中守宣雄の死(2)
京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日については、いくつかの記述がある。
まず、『寛政重修l諸家譜』の安永2年(1773)6月22日説。
(『寛政譜』 長谷川家より宣雄の項)
これの基となったはずの、孫・平蔵宣義(のぶのり 『鬼平犯科帳』時代では辰蔵)が幕府に上呈した[先祖書]では、安永2年(1773)6月22日と読める。
同じ[先祖書]で、本稿(1)に披露した平蔵宣以の項でも、6月21日になっていたが、どちらにしても、公式の命日で、実際の逝去日ではない。
公式の---とは、幕府に対しての諸届け・手続きをすますための命日の意である。
幕臣の任免・辞職の詳細を記した『柳営補任』にいたっては、安永2年7月17日卒と、半月以上も遅らせている。
長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒
山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同 7年(1777)7月20日御勘定奉行
それで、京都と江戸とのあいだを結ぶ、公用の継飛脚のことをかんがえた。
どれほどの日数で、備中守宣雄の死が、管轄している老中へ届き、後任が選ばれるのかと。
継飛脚でもっとも早いのは、70時間であったとWikipediaにある。
それに近い至急便で、宣雄の死は、老中へ告げられたろう。
秘密の要務---禁裏役人の不正摘発のこともあった。
老中たちは、後任の登用に意をつくしたとみるが、この推測は後日にまわしたい。
いや、推察はもう一つある。
京都へ付随しないで、江戸の留守宅を守っていた、宣雄の非公式の奥方で、銕三郎(てつさぶろう 28歳)にとっては実母の妙(たえ 48歳)のもとへの知らせは、どれほどの日数で達したか。
早くて7日後か。
陰暦の6月中・下旬といえば新暦の7月下旬で、酷暑の季節であり、遺骸の傷みも早かろう。
妙の上洛を待って葬儀というわけにもいかなかったろう。
もちろん、遺骸を江戸の菩提寺・戒行寺へ移送して葬るわけにもいかない。
葬儀は、『寛政譜』にあるとおり、京・千本通り出水(でみず)の華光寺(けこうじ)で行われた。
戒名も華光寺が贈った。
叙太夫・従五位下の宣雄にふさわしく、泰雲院殿夏山日晴大居士
【参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (2)
2005年3月25日[女盗(にょとうおたか(お豊)]
長谷川本家の末・雅敏(まさとし)さんが華光寺へ問い合わせた結果は、すでに記している。
【参照】2007年4月14日~[寛政重修諸家譜] (10)おたか(お豊)
肝要な史料なので、煩瑣をいとわず、再掲示する。
これには、西町奉行の示寂(じじゃく 死」)は、6月17日亥刻いのこく 午後10~11時代)となっている。
葬儀は23日の酉刻(とりのこく 午後5時)からだが、晩夏なのでもだ明るかった。
所司代に次ぐ要職である京・町奉行の現役の葬儀であるから、弔問者は多かったろう。
進行・整理には、浦部源六郎・彦太郎父子をはじめ、奉行所の同心や小者や、彦十(ひこじゅう 38歳)らがあたったことも想像がつく。
ただし、遺族席に、内妻・妙の姿はなかった。
回向帳に、化粧指南師・お勝(かつ 33歳)の名があり、〔狐火(きつび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)は骨董商・〔風炉(ふろ)屋〕勇五郎と記名していた。
【参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい〕のお豊)] (1) (2)
祇園一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあや)〕の父子は、はっきりと屋号と名を記帳していた。
葬儀がおわり、香典をあらためた西町奉行所の同心たちが首をかしげたのは、四条通り麩屋j町の〔紅屋〕平兵衛が1両(16万円)つつんでいたことであった。
「お奉行は、口紅の〔紅屋〕と、どんなかかわりがおありになったのか?」
ひとしきり、隠しおんなの詮索を話題にしてみたものの、けっきょく、わからずじまいで話がつきた。
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