浅野大学長貞(ながさだ)の異見
「この家は、二本差しがくるところではないから、徒(かち)目付なども目をつけていない」
平蔵(へいぞう 31歳)がわざわざ披露すると、長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)の前に坐って酌をしていた女将・お蓮(はす 31歳)が、
「裏庭の向こうは小名木川(おなぎがわ)で、話し声をきいてるのは、鯉か鮒(ふな)か鰻(うなぎ)だけです」
客の3人が笑った。
浅野大学長貞(ながさだ 30歳 500石)の前へ移ったお蓮が、ふっと気がついたふりをして、
「浅野さまといえば、赤穂の---?」
大学がちらっと平蔵に目をやり、うなずいたのを認め、
「祖父が、内匠頭(たくみのかみ)の弟であった」
「あら。お芝居に描かれているお方にご縁のお人に、生まれて初めてお目にかかりました。末代までの語りぐさでございます」
あけっぴろげのはしゃぎぶりに、大学は困惑顔をした。
佐左衛門が話題を変えた。
「平(へい)さんは、白書院・松の廊下で内匠頭(長矩 ながのり 35歳)さまを抱きとめた、梶川(与惣兵衛頼照 よりてる 54歳 700石=当時)どのがなされようを、どう、おもう?」
料理をつつくふりをしながら、、
「佐左(さざ)の考えは?」
咳ばらいを一つしてから、
「おれの考えでは、ちと、早すぎた---と」
「早すぎた?」
「浅野侯が、柳営での刃傷沙汰におよべはその身とお家がどうなるかということは十分にご承知の上で、小刀をお抜きになったからには、それだけのお覚悟と理由(わけ)があったのであろう。ならば、ことを成しとげるまで待ってから、抱きとめるのが武士の情けだとおもう」
「それは、西丸の書院番3の組の番士衆、大方の見解か?」
平蔵が、確かめるように佐左の双眸(りょうめ)をのぞきこんだ。
事件がおきた元禄14年(1701)3月14日の経緯を、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』を現代文ふうになおして掲げる。
今朝、勅使の公卿方が将軍・綱吉(つなよし)に拝謁のために本丸へおわたらせになったころ、留守居番・梶川与惣兵衛頼照は、将軍夫人のお使いをいわれ、公卿の宿泊先へおもくむくについて、そのことのを打ち合わせようと白木書院の廊下で、高家・吉良上野介義央(よしなか 61歳 3000石)と立ち話をしていたところ、接待掛の浅野内匠頭長矩が、宿意があるといいながら、脇差しを抜いて斬りかかった。
おどろい振りかえった義央の眉間が斬られた。
与惣兵衛頼照はすぐさま、長矩を抱きとめているところへ、義央の同僚もかけ集まり、義央を別室へ連れた。
よって、公卿の謁見は黒木書院でおこなわれた。
目付・天野伝四郎富重(とみしげ 57歳 750石)、曽根五郎兵衛長賢(ながかた 54歳 1600石)が長矩を受けとり、蘇鉄(そてつ)の間の杉戸の内へ入れた。
監視につきそったのは、目付・多門伝八郎重共(しげとも 43歳 700石)と複数の徒、小人目付たちであった。
まず、義央に意趣をただされたが、まったく覚えなしとのことであったので、乗り物にのらせ、平河門から帰宅させた。
長矩は、陸奥国一ノ関・田村采女右京大夫建顕)(たけあき 46歳 3万石)へあずけられた。
(中略)
(世に伝わるところでは、吉良上野介義央は歴代高家を継いでおり、朝廷との儀礼にかかわっていたので、公武の礼節典古を熟知精通しており、その右へでる者はいなかったため、名門大家の族もみな、礼をつくして義央に阿順し、その役に任じられた都度、教えをうけた。そんなことから賄賂をむさぼり、家には巨万を貯めこんでいたというが、長矩は阿諛(あゆ)しなかった)
いや、ことは浅野内匠頭のやったこととか、吉良上野介の賄賂とりの真偽うんぬんではない。
長野佐左衛門が平蔵に問うた、梶川の即座の制止が、武士として誉められるかどうかである。
平蔵は西丸・書院番4の組である。
そして、西丸・書院番3の組や本丸に梶川批判がひろまっていたために、それから80余年後の天明4年(1784)3月24日に若年寄・田沼山城守意知(おきとも 36歳 稟米3000俵)に斬りつけた佐野善左衛門政言(まさこと 30歳代? 500石)を抱きとめたのは近くにいあわした大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)であった。
歴史書には、このように書かれているが、じつは、対馬守忠郷は、善左衛門政言が意知に致命的な傷をおわせるまで、抱きとめなかったともいう。
もし、忠郷がもっと手ばやく善左衛門をとめていたら、歴史は別の様相をしめしたかもしれない。
【参照】2007年1月5日[平岩弓枝さんの『魚の棲む城] (3)
2007年11月26日[田沼意次◎その虚実] (3)
お蓮が、媚びをふくんだ流し目を大学長貞にくれ、
「なんだか、むつかしいお話ですなあ。芝居のほうは、もっと分かりやすくできてますよ」
(梶川与惣兵衛頼照・個人譜)
【参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
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コメント
忠臣蔵談義とおもっていると、論点は田沼意知に飛び、大目付・松平対馬守忠郷の武士の情け論議。
でも、佐野政言が予定の行動で、松平対馬守もあらかじめそのことを知っていたと勘ぐると、歴史の裏側がのぞけそうなストーリイになってきます。おもしろい!
投稿: tomo | 2010.07.28 09:19
>tomo さん
せっかく、浅野大学長貞が銕三郎と同じ日の初お目見仲間で、同世代、似た家禄(両番)で盟友になったのだから、話題を内匠頭長矩にふると、この話題かなあ---とおもいいたりました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.28 11:46
浅野大学長貞さんが、平蔵さんと同日の初お目見仲間ということはどのような方法でお調べになったのか、お教えくださいますか?
投稿: tomo | 2010.07.28 11:53
>tomo さん
銕三郎は、『徳川実紀』の明和5年(1768)12月5日に、30人で初目見したと記されてい、どの学者先生もその記述を信じていらっしゃいますが、実は、なんと150人以上いたことが、『寛政譜』を総あたりして分かりました。
活字本ですが、総あたりしますと、1週間はゆうにかかります。
銕三郎の初目見のほかでも、もう、総あたりを2度もやっているので、いまは、ちょっと、やる気がおきません。体調がくずれるのです。
こんなものこそ、電子プックにして検索がかけられるようにしてほしいです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.28 17:28