〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(9)
「明日、七ッ石村まで、馬を借りたいのだが---」
平蔵(へいぞう 32歳)が、壬生藩町奉行所の角田主膳(しゅぜん 42歳)に頼んだ。
「身どももお伴をいたします」
「わがままな物見遊山にすぎないので、それには及ばぬ」
そういわれても、藩主じきじきの声がかりの客であり、一人でほおっておいてよいものか。
角田同心は逡巡していた。
そこへ、、鼻の頭に汗をうかべた〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへえ 20歳)が女中に案内されてきた。
「遅くなりやした」
言葉づかいに、角田同心が不審げな眼差しをした。
「ご苦労。つもる話は、のちほど---」
平蔵の気持ちをとっさに察した〔越畑(こえばた)〕の常八(つねはち)はさすがであった。
「杉よ。裏の井戸で汗をぬぐったら、向こうの松造どんの部屋でひと休させてもらいな」
せきたてるように、自分が先にたった。
なおも、角田同心が問いかけた。
「馬の口取りは---」
「いや、早駆けを試みることもあろうから、その儀はご放念を---」
「では、明朝、六ッ半(午前7時)に馬をおとどけいたします」
「五ッ半(午前9時)ではいかがかな?」
「こころえました」
角田同心が首をかしげながら退出すると、常八たちが部屋へ戻ってきた。
杉平が、待ちかねていたように、一気に話したところによると、ここ10年のうちに、七ッ石村を抜けたのは5人ほどいるが、無宿になったのは1人だけで、名は豊次(とよじ 28歳)、熊野神社で下働きをしていたが、3年前にふっといなくなった。
賽銭箱が空になっていたが、たいした金子がはいっていたわけではないので、とどけてないと。
{ちょっと、待ってくれ。山伏たちの七石山戒定坊というのは、熊野神社の脇にあるのではなかったか?」
「へえ、さいで」
「その山伏の坊で働いていた、お玉(たま 28歳)というおんなのことをなにか聞きこまなかったかな?」
「んにゃ」
「悪いが、明日、もういちど、七ッ石村へ行ってくれないか?」
「あっしも、お伴をいたしやす」
常八が先に申し出た。
その夜もまた、酒盛りなった。
本陣の宿主・庄兵衛も加わったが、平蔵は、いつもより控えているのを、松造(まつぞう 26歳)は、不思議なこともあるものだとおもいながら、盃をあけていた。
赤い顔をした庄兵衛が引きさがろうとすると、平蔵も立ち、廊下でささやいた。
「明朝、七ッ(午前4時)前にちょっと出かけるから、戸をあけておいてもらいたい。なに、1刻(とき 2時間)もしたらもどる」
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コメント
平蔵さんが序々に捜査しごとに練達していくとともに、幕府内や裏の世界の元締衆のルートを太くしていく過程がにじみでていて、興味津々です。
単に、鬼平さんにあこがれるのではなく、平蔵さんが熟していく筋道がよく分かり、同感しています。
投稿: tomo | 2010.10.03 10:23
男は、突然、男になるのではありません。いろいろな経験を経、人には話せないような失敗も重ね、男をつくっていきます。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.10.03 10:26
>moto さん
いつも、適切なコメントを、ありがとうございます。
銕三郎(鬼平の家督前の名前)は、父・平蔵宣雄の火盗改メとしての仕事ぶりを眺めたり手伝ったりしながら、「これは、人の人生を読む仕事だな」とおもったことでしょう。
人の人生を読む---つまりは、小説家であり、検事であり、裁判官であり、人を使う立場の者です。
『寛政譜』からは、なぜか、平蔵宣雄が火盗改メをやり、目黒の行人坂の大火の放火犯を挙げた手柄は記録されていませんが、その手伝いをしたりして、平蔵は探索にのめりこんだのだろうと思っています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.10.03 11:43
>文くばりの丈太 さん
>男は、突然、男になるのではありません。
おっしゃるとおりです。
失敗や恥ずかしいことを磨き砂とし、男をつくっていくのです。
池波さんは、タクシーにこころづけを渡すことを磨き砂として男を鍛えていけとすすめています。
「お釣りはとっといて」というのは、じっさいには、なかなか、勇気がいります。
それと、イタ・セクスアリスのあと始末。
銕三郎の場合はうまくいきすぎていますね。
投稿: ちゅうすけ | 2010.10.03 17:34