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2010.12.15

医学館・多紀(たき)家(4)

「手文庫にあった受講料はともかく、薬棚から朝鮮人参が盗まれたというのも、なんとなく気になるな」

_130平蔵(へいぞう 34歳)には、平賀源内(げんない 50歳)の飄々とはしているが、どこか神経質そうな風貌が浮かんだ。

参照】2008年2月29日[南本所・三ッ目へ] (

ちゅうすけ注】平賀源内は、翌年---安永9年(1780)12月に死んだという説のほかに、田沼意次によってひそかに相良藩領内へ送られ、70歳前後まで生きていたとの説もある。

それと、朝鮮人参に代わる竹節(ちくせつ)人参を源内からもらい、故郷の上総(かずさ)国寺崎村で栽培している下僕だった太作(たさく 70歳すぎ)の老顔であった。

参照
2010218[竹節(ちくせつ)人参] () () () () () () 

太作は、銕三郎(てつさぶろう 14歳=宝暦9年)がさなぎから男へ脱皮する手助けをしてくれた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

佐々木うじ。お手数だが、朝鮮人参を50両(800万円)分も、居宅においていたわけを、ご子息の元簡(もとやす 25歳)どのに、そっとお訊きくださるまいか?」
「それがしが訊くより、長谷川さまが元簡どのにじかにお訊きなるほうがよろしいかと。長谷川さまのご都合のよき日に、こちらへでも招じておきます」

承知し、さらに、躋寿館(せいじゅかん のちの医学館)と居宅に、甲州生まれ、あるいは甲州なまりのある使用人がいるかどうか、目黒・行人坂の大火で類焼したあと、再建したときの大工の棟梁の名前と住まい、そのときに働いた職人でいなくなった者はいないかどうかを調べるように頼んだ。

さらに、いま受講している者の親元が施療している科目も知りたいと告げた。


その夜、藤ノ棚の家で、立て右膝の里貴が、
「朝鮮人参ですが、紀州の貴志の村で、回春に効き目が高いと聞いたことがあります」
「回春---?」
(てつ)さまにはまるで縁遠いことですが、万金を積んでも、男としてのものを壮年のときに戻したいと願う殿方も少なくないと---」
「効くのか?」
「効くからこそ、万金を惜しまないのでございましょう」
「万金をくれるなら、拙のを貸してもいいぞ」

「馬鹿ばっかり。いやですよ、ほかの丹穴(たんけつ)に入るなんて---」
「丹穴?」
「芝生の真ん中の竪(たて)の割れ目を指で開くとあらわれる深い渕---」

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076その他の幕臣」カテゴリの記事

コメント

朝鮮人参ときて、平賀源内、竹節人参、太作と鉄三郎の過去へつながるのが愉快です。

投稿: tomo | 2010.12.15 12:45

朝鮮人参は漢方薬の主役だから、黄金の重量と同じほどの値段だったのでしょうか。
そうだとすると、竹節人参の栽培を弘めた源内先生は、幕府の富をふやしたといもいえます。

投稿: 文くばりの丈太 | 2010.12.15 12:52

>tomo さん
このブログも早いもので、満5年近くもつづきました。
14歳だった銕三郎もいまでは35歳です。
この21年のあいだに数百人の人物が登場しました。盗人だれでも300人近く。
最初からアクセスしてくださっている方でも多くの人物を覚えてはいらっしゃらないと想定し、過去のファイルにうるさいほどリンクを張っています。
ご容赦ください。


投稿: ちゅうすけ | 2010.12.15 13:12

>文くばりの丈太 さん
多紀家の盗難という必要にせまられて、薬草の勉強をつけ刃でしています。
そうしたら、自分の不調を認識させられ、健保のきく医院をさがす羽目になりました。
お互い、健康に留意しましましょうね。

投稿: ちゅうすけ | 2010.12.15 13:19

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