新与頭(くみがしら)・中川左平太昌栄
天明4年の年賀まわりは、気が重かった。
平蔵(へいぞう 明けて39歳)が西丸・書院番4の組に配属になってこのかた12年、蔭になり日向(ひなた)になって支えてくれた与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 64歳 800俵)が風邪をこじらせて臥せったままであった。
齢が齢だけに、余病の心配があった。
訪れなれた牛込築土下五軒町の屋敷で、年賀のあいさつだけで帰るつもりであったが、嫡男・千助勝昌(かつまさ 明けて24歳)に招きあげられた。
「与頭が、どうしても、お目にかかりたいと申しております」
めっきり頬がおちた郷右衛門は、それでも目をかけてきた平蔵に、
「風邪がなおり次第、致仕(ちし)前に、里貴(りき 明けて40歳)女将の見舞い行くつもりであった。よろしく、伝えておいてくだされ」
「組は、まだ、与頭どののご経験を必要としております。致仕だなんて、とんでもございませぬ」
「いや。後任には、あしかけ26年、われらの組で番士を勤めてきている中川左平太(昌栄 まさよし 明けて45歳)うじをお(番)頭へ推しておいた。このこと、秘して年賀にまわっておくように---」
それから、耳をかせとつぶやくようにいい、
「そこもとを、徒(かち)の組頭にと、3人の与頭の内諾をえておいた」
「はっ---」
郷右衛門は、西丸のほかの書院番の与頭との懇親の会場に〔季四〕をあて、それとなく後ろ支えをしてくれてきていた。
それだけ、平蔵の特異な器量を買ってくれていたといえる。
【参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] (1) (2) (3)
2010年4月23日~[女将・里貴(りき)のお手並み] (1) (2) (3)
2011年3月4日[西丸の重役] (5)
2011年3月5日[与板への旅] (1)
3人の与頭たちへの根まわしがすんでいるということは、番頭や西丸の若年寄への耳にも入れてあるということであろう。
それから10日たらずで郷右衛門勝孟は永眠した。
葬儀に列した帰り、里貴を見舞ったが、勝孟の死を告げるのはひかえた。
気落ちさせることが病状をすすめると判断したからであった。
閏正月8日、中川左平太昌栄が後任として発令された。
平蔵は、先輩の昇進をすなおに祝ったが、〔季四〕には招かなかった。
(中川左平太昌栄の個人譜)
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コメント
中川左平太の家譜をながめると、若くして逝った兄の遺跡をつぎ、ずっと西丸の書院番士でき、組頭になり、そのまま家斉の本丸入りにしたがった形で本丸入りしていますが、若干のタイム・ラグがあるのはどういうことなんでしょう?
投稿: 左衛門佐 | 2011.08.18 05:43
平蔵さんが牟礼老の死を里貴さんに告げなかった心づかい、わかります。
一橋のお店のときから、手をとったりして父親に仕える実のむすめのように振舞っていました。
その見返りは、平蔵さんに返されていたとおもいます。
投稿: tomo | 2011.08.18 05:51
>左右衛門佐 さん
ご質問をいただいて、崩壊した書斎の本類の中から『続徳川実記 第1巻』をさがしたのですが、見つかりませんでした。で、手がすいたので、図書館へ行ってたしかめました。
ブログは、いま、天明5年(1785)1月をうろちょろしています。
将軍・家治は、天明7年(1787)8月24日から25日にかけて薨じたと推定されますが、幕府の発表では9月8日になっています。
田沼派の息の根をとめるために家治を生きていることにしたのでしょう。
さて、14歳の家斉の本城入りは天明7年11月27日と記されていました。
つまり、中川左平太の本城づとめは、家斉より3年遅れています。もっとも、本城には10組の書院番がいたわけですから、家斉は、すぐに西丸の人材を移すまでもなかったでしょう。
長谷川平蔵は、家治が逝く1年前に本城の先手組頭へ栄転しています。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.18 16:47
>tomo さん
おっしゃるような平蔵の心づかいが、里貴に安心感をあたえ、10年間も仲がつづいているのではないでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.18 16:56