西丸・徒の第2組頭が着任した(4)
「困りました。組の徒士30人のうち、22士しか出仕してきません」
「瀬名うじのせいではありませぬ。風邪のせいでしょうよ」
西丸・徒(かち)の2の組頭の瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)の嘆きを平蔵(へいぞう 40歳)が先任らしくなぐさめた。
蔵前天王町の茶飯の〔ほうらい屋〕利兵衛方の奥座敷であった。
(蔵前天王町茶飯〔ほうらい屋〕利兵衛 )
「われが4の組頭を引きうけたときも、総出仕を呼びかけたのに、6名が風邪をいいたてて顔をみせなかった」
【参照】2011年9月20日~[西丸・徒(かち)3の組] (1) (2) (3) (4) (5)
{わが組の与(くみ)頭の鳥坂弥五郎(48歳)から聴きました。長谷川さまは徒士たちのうち、蔵宿に高利の金を借りている士の利息を棄捐(きえん)させてしまわれたとか---?」
「そのような荒っぽいことができるわけはありません」
「しかし、この町の〔東金(とうがね)屋〕というのを動かして高利のほとんどを棒引きさせたと---」
「お待ちなされ。その前にお訊きしておくことがある。失礼ながら、瀬名うじの家禄は500石---さようでしたな」
「さようです---うち半分は埼玉郡(さいたまこおり)の上弥勒村ですが---?」
「ご祖父・義珍(よしはる)さまは宝暦11年(1761),年まで本丸の徒の組頭をお勤めになり、そのあと目付をなさっておられます。その足高(たしだか)をおまかせになっていた蔵宿は---?」
訊かれた貞刻は、祖父がみまかったときは5歳であったから気づかなかったと応え、
「そのことと、徒士の不出仕がどう結びつきますか?」
平蔵は、おのれが徒の組頭になったとき、蔵前の蔵宿の評判を調べさせ、幕府からじかに現金でもらっていた亡父のやり方をあらため、〔東金屋〕を通すことにした。
そのほうが世の中の米と金のめぐりがいささかでも増えるとかんがえたからである。
と同時に、〔東金屋〕清兵衛(せえべえ 40まえ)にすずめの涙ほどの利をとらせ、組の徒士の札差しを移すことで高利の清算をたのんだ。
「商人は利によって家を支え、利によって義を果たします。武士はとかく利を蔑(いやし)めますが、商人にとって利は躰の中をめぐっている血のようなものです。血がとどこおっては生きていけませぬ」
「わかりました。まず、これからの足高を〔東金屋〕にまかすことにしましょう」
松造(よしぞう 35歳)が呼びi立ち、ほどなくして〔東金屋〕清兵衛の穏顔があらわれた。
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