与力・浦部源六郎(3)
「浦部さまのご担当は?」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、山女(やまめ)の焼き身を口にいれながら、訊いた。
「長谷川/strong>さまは、江戸の町奉行所へは?」
「いえ、行ったことはございませぬ。訪ねたことがあるのは、駿府、掛川の町奉行だけです」
【参照】2008月15日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20)
20091年1月15日~[銕三郎、三たび駿府へ] (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] (1) (2) (3) (4)
浦部与力は、基本的なことから解説をはじめた。
江戸は、南、北。京都は、東、西。
京都は、西が二条城の南(現・中京区西ノ京北誓町---中京中学のあたり。総坪数3,887余坪。 東は二条城の南(現・西ノ京職司町東側あたりに4,426余坪)
江戸は、両町奉行とも役高3000石格、京都は、両町奉行とも、役高1500石格。
江戸は、与力各25騎、同心各125人、京都は、与力各20騎、同心各50人。
ただし、時代によって多少の増減があった。
与力・同心は、いずれも一代かぎりの契約だが、じっさいには世襲とかわらなかった。
与力の俸給は200石。同心は30俵2人扶持が基本。
西奉行所の与力・同心の屋敷は、現・中京区西ノ京職司西側あたり。その南に東のそれがあった。
京都町奉行は、所司代に属し、職務は、五畿内・近江・丹波・播磨の幕府直轄領・寺社・京都町方・山城国村方などの支配が主務(平凡社『郷土歴史大辞典 京都市』による)。
三田村鳶魚『幕府スパイ政治』(中公文庫・鳶魚江戸文庫8に収録)は、京都町奉行の職掌を以下のように記している。
禁裏御所々々の警固、所司代の御下知を以て勤む、所司代参府の時ば、是に替って相勤る義、御役の第一也。
抑所司代の御役義は、禁裡守護におよび、西国三十三ヶ国の藩鎮則探題の重役也、
此下に随ふ御役なれば、西国一締りの義に携り、万端米穀の豊凶等の儀迄も心を及す儀、御役の第二也。
所司代御参府(江戸行きのこと)の節は、御朱印を預り奉り、且御教書も護持奉り、洛中事あらば、諸大名を招き集めて、禁裡を守護す、是御役の所詮にて、御治世においては、禁裡御所方御賄等の義、平日町奉行の司る所にて、御物入の増減迄委敷扱ふ、是御役の第三なり。
五畿内の寺社御朱印を指揮す、尤寺社奉行兼帯し、諸宮門跡たり共、皆町奉行の下知を聞く、是当任とする所にて、御役の第四也。
山城、大和、近江、丹波の四ヶ国は、京都町奉行の支配にて、公家領、諸大名領、寺社領たり共、大となく小となく、皆当任の取捌く所にて、第五の御役也。
摂家、宮方、清華の御方、堂上方共、都て御行跡其外何によらず、所司代の御目に止めらるる事なれば、町奉行も平日其品を聞合せ、所司代へ申す、尤諸願ひ万事は伝奏を以て所司代へ申す、所司代より町奉行へ調べ仰付けらる、町奉行其品を糺し尋ねて、其善悪を所司代へ告る故、摂家たりとも町奉行をかろしむること能はず、おのづから威勢は遠国諸奉行の上にたつて、高位高官の人も恐れをなすの御役なれば、常に其身を慎しみ、政務の正路を専らすること肝要にして、則三十三ヶ国の手本なる義、御役の所にて、上方御代官を支配する事、御役の第七なり。
例によって、出典は記されていない。
第六も、第七に包括した文章になっている。
「お尋ねいただいた、それがしの役ですが---」
浦部与力は、奉行所の役屋敷の中には、公事方、勘定方、目付方、欠所方、証文方などをそれぞれに分担しており、浦部は、目付方を担当していると言った。
「〔読みうり〕のご担当は?}
「島原・風聞方です。なにか?」
「じつは、知人が、化粧(けわい)の手引きの〔読みうり〕を板行したいと申しておりまして---」
「それがしから、その役方与力へ話しておきましょう」
「算段が煮つまって、お願いにあがりました節は、よろしくお願いします」
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