〔穴原(あなはら)〕の与助
『鬼平犯科帳』文庫巻20に収録の篇で、タイトルとなっている口会人の[寺尾の治兵衛]がことは、すでに紹介している。
この〔寺尾(てらお)〕の治兵衛とともに、かつては〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下で薫陶をうけていたが、一味が解散したときに貰った引退金(ひきがね)で、品川の先の海辺に近い大井村に小さな家を買ってひっそりと暮らしていた。が、治兵衛が最後の盗めをするというと、自分の家を盗人宿として利用することをすすんで承諾した。
(参照: 〔寺尾〕の治兵衛の項)
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
年齢・容姿:60をこえている。容姿の記述はない。
生国:岩代(いわしろ)国会津郡(あいづこうり)穴原(現:福島県南会津郡舘岩(たていわ)町穴原)。
上野(こうづけ)国利根郡(とねこうり)穴原村(現:群馬県利根郡利根村穴原)も候補地の1つだが、会津の穴原は、化政期(19世紀初頭)に家数15軒という記録と冬期の積雪をかんがえると、病気持ちの与助としては故郷へ帰ることをためらったであろうと推察して、会津の方をえらんだ。
ついでだが、会津も利根も(あなばら)と濁って発音する。
探索の発端: 〔寺尾〕の治兵衛のほうから〔大滝〕の五郎蔵に声をかけ、それから探索がはじまった経緯は治兵衛の項に記しているので省略。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
結末:〔穴原〕の与助も捕まり、治兵衛から預かっていた170余両は、お上が没収。それにしても、〔蓑火〕一味が解散してからかなり日がたっている。時効というのはなかったのだろうか。あるいは、鬼平は、与助の病躯を気づかってやらなかったか。
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コメント
「公事方御定書」18条、旧悪お仕置きの事、をみると時効のようなものが読み取れます。
与助も「蓑火」の一味の時の罪はまぬがれても、今回の未遂とはいえ「盗人宿を承諾」したのですから、同じく56条、盗人御仕置きの事によれば「死罪もしくは重追放」になっています。
平蔵の情けで裁きの時点で、罪が軽減されるとよいのですが。
投稿: みやこのお豊 | 2005.05.19 13:49
もう一つ、疑問。
治兵衛から与助が預かっていた170余両を、お上が没収---というの。
いつも捜査費用が足りなくて、ヒイヒイいっている長谷川組に、下しおかれないのかな、と。
時効関連ですが、江戸ところ払いは、期限なしの永久刑なんですってね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.05.19 17:52