〔日妻(ひづま)〕の文蔵
『鬼平犯科帳』文庫巻5に収まっている[おしゃべり源八]で、を記憶喪失にさせたのは、残忍な畜生ばたらきが専門の〔天神谷(てんじんだに)〕の喜佐松配下の〔日妻(ひづま)〕の文蔵であった。
(参照: 〔天神谷〕の喜佐松の項)
文蔵は、東海道・藤沢の遊行寺坂で、尾行(つ)けのぼってくる同心・久保田源八を影取(かんどり)の千本松林へ誘いこみ、棍棒で頭を殴って気絶させ、手がかりになる持ち物をすべて処置した。
そのために記憶を失った久保田同心は、江戸まではたどりついてもの、目黒の百姓屋で厄介になつているところを、目黒の行人坂で木村忠吾同心の叔父の中山茂兵衛に見つけられた。
夕日岡・行人坂(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)
だが、呼びかける中山叔父にも、久保田は無反応だった。寛政2年(1790)年1月10日のできことであった。
年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:「日妻」という地名はないので、不明。
ただ、陸中国巌手郡(現・岩手県盛岡市)に上・下鹿妻(かづま)というよく似た地名があることを付記しておく。
探索の発端:中山叔父による発見から、久保田源八の唯一の所持品である笠に刻印された〔とみや〕の文字を手がかりに、鬼平以下が藤沢へ出張り、遊行寺坂したの茶店〔とみや〕の店主・仁助の記憶から源八が失踪した日の経緯がやや判明した。
それをよりどころに手がうたれた。
結末:ついには、川崎宿はずれの旅籠[大崎屋〕が〔天神谷〕一味の盗人宿と知れて、打ち込み、喜佐松以下7名、すべて捕縛。文蔵もその中にいた。
6名は江戸市中だけでも40人も殺していたから死罪となったが、鬼平は文蔵のみを牢中にとどめおき、のち、密偵としたようだが、その記録はない。
つぶやき:鬼平が文蔵の性根を買ったのは、源八を棍棒で殴りたおし、首を絞めてとどめをさそうとしたとき、源八の幼児のようにあどけない顔をみてと手をとめた、その仏ごころを評価したのであろう。
篇中でも、文蔵は、首領〔天神谷〕の喜佐松の残虐ぶりに愛想をつかせていたとある。
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