ちゅうすけのひとり言(6)
銕三郎(てつさぶろう 家督後・平蔵宣以=小説の鬼平)、14歳の宝暦9年(1757)に、東海道を上らせ、駿州・益津郡(現・藤枝市)の田中城へ旅をさせたことがある。
田中城は、今川領だった時代に、銕三郎の祖・長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が城主だった。
【参考】銕三郎の初旅については、2007年7月1日[田中城しのぶ草] (13) (14) (15) (20)
幕臣の子らしく、宿々は本陣に泊まらせようと、参勤交替で上下する各藩の参府・帰国の月を、手元の『文化武鑑』(柏書房 1981.9.25)で調べた。
もちろん、宝暦9年と文化元年(1804)では50年近いへだたりがあるが、人名はともかく、家紋や槍印、参府・帰国の月などはそう変動はなかったろうとみたのである。あとで、 『大武鑑』ででも、宝暦年代を確認すればいいと安易に考えた。
(文化元年の武鑑 紀州藩の項)
本陣は、4月が比較的、閑散そうだったので、銕三郎をこの時期に旅立たせた。
このとき、もっとも念を入れたのは、紀州家(55万5000石)と尾州家(61万5500石)。親藩だから本陣側も特別扱いにしたろう。大藩で従者の数も多かろうと推量した。
で、どちらも、3月に参府・帰国していたが、紀州藩は、参府が丑(うし)、卯(うさぎ)、巳(へび)、未(ひつじ)、酉(とり)、亥(いのしし)の年。
帰国は逆に、子(ねずみ)、寅(とら)、辰(たつ)、午(うま)、申(さる)、戌(いぬ)の年。
話は唐突に変わる。
七代将軍・家継(いえつぐ)が、正徳6年(1716)4月30日に8歳で歿する。六代将軍・家宣の遺言ということで、紀州侯・吉宗が江戸城ニの丸へ入る。
正徳6年は申年だから、吉宗は3月に帰国の年だが、将軍が重態ということで帰国を延ばし、諸事にあたるべく在府・待機していたのではないか---と考えた。
ところが諸書の記述は、吉宗が紀州藩の面々205名を引き連れて、江戸城に入ったかのごとく、である。
それで、静岡のSBS学苑パルシェの〔鬼平クラス〕でともに5年間学んでいる安池さんに、機会でがあったら調べておいてほしいと、口をすべらせた。
安池さんには、これまでも、もろもろのリサーチでお世話になっている。
最近では、深井雅海さん『江戸城御庭番』 (中公新書 1992.4.25)もお借りした。
長谷川平蔵=鬼平ら先手10組に出動命令がでた、天明7年(1787)5月20日からの江戸騒乱に、お庭番も探索に出て、風聞書をあげているので、長谷川平蔵に関係がなくもない。
安池さんから、詳細なリポートがメールできた。
吉宗の所在については、やはり江戸にいたと。
安池さんがEXCLLでおつくりになったリストを、ふつうのリストにして、引用させていただく。
吉宗の紀州藩在国調
年 月 日
宝永2年(1705)10月4日江戸着
2年(1705)10月6日紀州藩相続
3年(1706)11月1日真之宮 理子と婚礼
7年(1710) 5月6日家督後、初帰藩9ヶ月
正徳1年(1711) 2月4日東覲 2月13日江戸着 12月18日長福丸(家重)誕生
2年(1712) 4月6日帰藩7ヶ月
10月14日将軍家宣薨去
2年4カ月東覲
11月13日 御着座
4年(1714) 4月 帰藩12ヶ月
5年 (1715) 3月 東覲
11月27日小次郎(田安宗武)誕生
6年(1716) 4月晦日将軍家継薨去
5月1日将軍継承
在位 10年7カ月
吉宗が江戸にいたとすると、205名の人選を差配した者が江戸と紀州にいたことになる。
この研究書はあるのだろうか。会社の人事の参考になりそうだが。
このほかに、安池さんが田沼家についてお調べになったことは、明日。
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