〔荒神(こうじん)〕の助太郎(8)
母・妙(たえ 40歳)は、あたふたと旅支度をととのえ、女中・有羽(ゆう 31歳)と下僕・吾平(ごへえ 46歳)をお供に、箱根・芦ノ湯村へ発った。
「拙がお供をせずとも、大丈夫ですか? 母上」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)の問いかけに、
「寺崎への往復の距離です、なんということはない。銕三郎がいては、阿記さんの本音が聞けませぬ」
まるで、夫・宣雄(のぶお 47歳 先手組頭)の及ばないことに解決の手がかりをつかむのが、楽しくてたまらないといった意気込みである。
父の陰に寄り添っているようにしていたこれまでの母の、別の顔を見たようで、銕三郎は、女というものの不思議さを、また発見したのであった。
【ちゅうすけ注】上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村には、長谷川家の知行のうち220余石分があり、妙の実家は同村の村長(むらおさ)の戸村家。
永代橋の西詰まで見送り、早すぎるとはおもったが、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)の女がやっている呑み屋〔須賀〕の戸をたたいた。
寝着姿の権七が、
「だれかと思えば、長谷川さま。いったい?」
母を川向うまで見送ったところだと聞いて、
「芦ノ湯村へ?」
「そうなのです。阿記(あき 23歳)どののこころの内を聞くのだ---と」
「お話しになっちまったんですかい?」
「子どものことを、放っておくわけにはまいりません」
「わざわざ、波風を立てることもないとおもいやすがねえ。まあ、ことが始まったんじゃ、しょうがない」
昨夜の片づけができていない客台に腰を落ちつける。
「権七どの。昼間は躰が空いていますか?」
「いまのところは、昼間も夜も空いてまさあ」
「空いている躰を、大伯父のために、お借りできますか?」
銕三郎は、火盗改メの本役に任についている、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 先手・弓の7番手組頭)の名を出した。
「密偵?」
「怪しいと見た者の素性を調べたり、開かれている賭場をつきとめたり---です。手当ては、とりあえずは少ないでしょうが、手柄を立てれば、褒美もでるとおもいます」
「長谷川さまのお言葉ですが、人を売るってのは、どうですかねえ」
「売る---とおもわないで、悪者との知恵くらべだと思えば---」
「なるほど---」
「父上は、先手の組頭に就かれました。この先、いずれは火盗改メを命じられましょう。その時のために、手口を集めておきたいのです」
「わかりました。お手伝いいたします。しかし、命がけの仕事になりますぜ」
「そのつもりです」
午後、2人は一番町新道の屋敷で、太郎兵衛正直に密偵のことを申し出た。
「報酬は少ないが、やってくれると助かる」
そう言った太郎兵衛に、
「お頭(かしら)さまにお願いがございます。、あっしが箱根でやりましたご定法破りを、この密偵仕事で帳消しにしていただきとうございます」
権七の定法破りとは、関所抜けだった。まとまった金で、女づれの2人の男たちを、箱根のけもの道を案内して三島へ抜けさせたのが露見したのだという。
「いや、長谷川の若さまもご存じの、関所の小頭・打田内記(ないき)さまや添役(そえやく)・伊谷彦右衛門さまのお顔をつぶしてしまいやした。これを帳消しにお願いいたしとうございます」
そのかわり、3人の名前と潜み場所を密告(さ)すと---。
「金主(きんしゅ)は助太郎といい、年配で細身の、そう、45,6と見ました。女はその情婦らしく、身重のようでやした。もう一人の男は、彦と呼ばれておりやした」
「権七どの。26,7の男のほうは彦次と申しませんでしたか? それなら、女はその彦次の連れ合い---」
「いえ。いつも、彦とのみ---それから、女は年配の男の若い情婦に間違いございませなんだ。長谷川さま、おこころあたりでも---?」
「その一味ですよ。小田原の薬種屋〔ういろう〕で盗みを働いたのは---。呼び名は〔荒神〕の助太郎---。京都の荒神口で太物屋をやっていた男です」
「そういえば、女には京なまりがありやした」
【参考】〔荒神〕の助太郎のことは、2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩を迎えに] (8)
2008年1月25日~[〔荒神〕の助太郎] (5) (6) (7)
銕三郎は、2年前、本多采女紀品(のりただ)が火盗改メの時に、〔荒神屋〕の助太郎のことを告げ、京都所司代・阿部伊予守正右(まさすけ 39歳=当時 備後・福山藩主 10万石)に手配を頼んだが、京都東町奉行所が御所の東の荒神口の〔荒神屋〕へ踏み込んでみると、もぬけの空だった1件を、大伯父・太郎兵衛正直に告げた。
「して、その3人の者たちのひそみ場所というのは---あ、待て。与力の高遠(たかとう)弥太夫を呼ぶ」
太郎兵衛正直は、高遠与力(46歳 200石)が現われると、権七をうながした。
「駿州・志太郡(しだこおり)花倉郷と申しておりやした」
【ちゅうすけのつぶやき】「駿州・志太郡(しだこおり)花倉郷は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い庄右衛門]で、心の臓をわずらった庄右衛門が若い妾のお照と最初に隠れた下(しも)ノ郷の西隣の集落である。
ついでにいうと、長谷川家の祖先で、黒石川の下流・志太郡小川(こがわ)の豪族・法永長者(長谷川正重 まさしげ)が伊勢新九郎(のちの北条早雲)を援けて、その縁者・北川殿の産んだ今川義忠の嫡子・竜王丸を匿ったのが花倉城と。
(駿州・志太郡 赤○=小川 青丸=花倉)
太郎兵衛正直は高遠与力に、駿府城代・花房近江守職朝(もととも 50歳 6220石)への依頼と、小田原藩・箱根関所の長役(おさやく)への、権七の赦免状を命じた。
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