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2008.09.08

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(2)

「たしかに、お預かりいたします」
書留(かきとめ)役同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳 30俵2人扶持)が請けあった。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、正月5日に、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)とともに、火盗改メ本役・本多采女紀品(のりただ 54歳 2000石)の役宅にもなっている、表六番町の屋敷へ、年賀に訪ねたばかりであった。

それから旬日たつかどうかというのに、巨盗・〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 明けて46歳)の軍者(ぐんしゃ)・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)に興味が湧いたので、甲斐国まででかけるについて、頼みごとがあって訪問することになってしまったのである。

の生地・八代郡(やつしろこおり)中道村中畑(現・山梨県甲府市中畑)の村長(むらおさ)へ通じておいてもらうようにしたためた依頼状を、幕府の継飛脚便に託すべく、加藤同心にあずけたのが、それである。

もちろん、叔母・長谷川於紀乃(きの 69歳)からの、甥・甲府勤番支配の八木丹後守補道(やすみち 54歳 4000石)あての添え状も同封した。

本多紀品お頭は、市内巡行中で留守とわかり、銕三郎は安堵した。
顔があえば、〔中畑〕のおのことも話さないわけにはいかない。

先手組の与力は5,6人から10人と、組によってばらぱらであるが、同心は30名と一定している。
ただ、鉄砲(つつ)の16番手・本多組だけが、なぜか、同心が50名と、ほかの組よりも多い。
それだけに、探索にも人員をさきやすい。
中畑〕のおのことがしれると、銕三郎に同心を一人つけよう、と言われかねない。
この探索は、銕三郎としては、こっそりやりたかった。

だからといって、おをおんなとみてのことではない。
女男(おんなおとこ)のもののかんがえの筋道のつけ方をしりたいとおもっているだけのつもりである。

甲州街道の上高井土(高井戸)をすぎ、入間村と金子村のあいだの滝坂の路傍の石標に、「深大寺元三大師道」とあった。
野道を27,8丁ばかりで、深大寺(じんだいじ)の山門に達する。

初大師(1月20日)も終わっていて、参詣人もまばらであった。

303_360
(深大寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ
天台宗(調布市深大寺元町5-5-1)


_150高名な釈迦如来倚像(重文)を拝観した銕三郎は、門前のそば所〔佐須(さず)屋〕へ入った。(釈迦如来倚像 平凡社『東京都の地名』より)

南本所の家をでてから、5里(20km)ほど歩きずめで、初春とはいえ日和がよいため、いささか空腹で、汗ばんでもきている。一休みしたいところ。

15,6歳の武家むすめの供の者と店の亭主が、なにやら、そば代のことでもめていた。

供の者が勘定の段になって、紙入れを掏(す)られたか、落としたか、とにかく銭がないことに気づき、屋敷へ帰着後に送金すると言うが、店側が承知しない。

「失礼ながら---」
銕三郎が割って入った。
「父が、先手・弓の8番手の組頭を勤めている長谷川です。金子(きんす)なら、お立替しましょう」

供の小者の主(あるじ)は、下谷(したや)和泉橋通りに屋敷のある、西丸・新番1番手の与頭(くみがしら)・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 55歳 廩米200俵・600石高)。
息女はその次女・久栄(ひさえ 16歳)。
病床にある長女・英乃(ひでの 22歳)が、深大寺そばが食べたいと言ったので、快癒祈願かたがた求め、昼飯(ちゅうじき)をとったら、この始末なのだと。

「拙はこれから、甲府へ行く途中なので、立て替え分はいつにても、南本所・三ッ目通りの拙宅へ返済しておいてくださればよろしい」

まだ少女々々した面影がのこる久栄であったが、さすがに武家むすめらしく、正面から銕三郎に双眸をすえて、丁寧に礼をのべた。

納戸町の於紀乃叔母からたっぷりと路用をもらっている銕三郎は、大きくでた。
1分金(約4万円)を余分に小者の儀平へわたし、
久栄どのの帰路の荷馬賃の足しに---これは拙のこころざしなので、お返しにはおよびませぬ」

さっさとでて、深大寺城址に向かった。
寄り道は、こちらが主眼であった。
銕三郎は、少年のときから、城郭に関心があった。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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コメント

久栄さんとはこの頃から赤い糸で結ばれていたのですね。
結婚は17歳頃とのことですから。

投稿: みやこのお豊 | 2008.09.09 00:20

>みやこのお豊さん

はい、このころから、自然に逢うような筋立てをかんがえないと、結婚へいたりません。
というのは、池波さんは、長谷川家と大橋家は、本所・入江町の時の鐘堂前で隣同士だったことにきめていらっしゃいますが、史実は、これまで書いてきたとおり、長谷川家は南本所の三ッ目とおり、大橋家は和泉橋通りですから、そう偶然に出会うわけにはいきません。
また、年齢的にも、辰蔵が生まれたのは明和6年ですから、結婚はその前年---しかも、その年の12月は、銕三郎の初目見があったのです。
そんなわけで、初逢いの場所を、深大寺にしました。
江戸市中で悪浪人にからませるのは、三文講談のテですからね。

投稿: ちゅうすけ | 2008.09.09 05:34

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