〔中畑(なかばたけ)〕のお竜
「古府中(甲府)まで、なん日で歩くつもりじゃえ?」
歯がほとんどないので息がぬける声で、於紀乃(きの 明けて69歳)老叔母が訊いた。
70歳に指先がとどいている大身旗本の未亡人・於紀乃だが、甥とはいえ、若い男と話すのは愉しみらしく、銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳 のちの鬼平)がくると、深いしわが目立つ目じりが、先刻からさがりっぱなしである。
「36里(ほぼ124km)---天気次第ですが、まあ、5日もみておけば---」
銕三郎は、そうした叔母のこころ根を読んで、多めに答えた。
(甲州路 『五街道細見』の付録図より)
「若い銕三郎どのの脚にしては、かかりすぎのような気もするがの」
「いいえ、叔母上。甲斐路は、まだ、雪の積もっている峠のつながり道ゆえ---」
「登りがあれば、降(くだ)りもあるのが道理じゃて」
「甲府城下町は、江戸より100丈(じょう 300m)も高い土地です」
「ふん。それで、古府中には、なん日、泊まるのじゃえ?」
「行き帰り2泊、中畑(なかばたけ)に1泊---}
「往来に10日---1日1分(ぶ 4万円)とみて、2両2分(ほぼ40万円) 3泊は1両(16万円)で足りようぞ。しめて3両2分といいたいが、それでは銕三郎が承知すまいから、5両」
座布団の下から財布を引きだし、元文1分金を20ヶ、数えて、懐紙に載せた。
(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)
伯母上。10両でも20両でも、と仰せでしたが---」
「それがの、新しい年も達者に迎えてみたら、まだまだ生きていけそうな気分になっての。そうなると、無駄づかいはならぬとおもえてきての」
「はあ------」
「不服そうじゃの。では、もう1両、足してしんぜよう」
「あの、じつは2人で行くつもりでおるのですが---」
「連れは、男かの、おんなかの?」
「男です」
「ならば、相(あい)部屋でよかろう?」
於紀乃叔母は、旅費を足さなかったから、だまし甲斐はなかった。
「きりよく、10両になりませぬか?」
「調子にのるでない」
於紀乃とすれば、けちっているわけではない。
先日は、もののはずみで、10両でも20両でもと言ったが、じつのところ、盗賊の素性をしったとて、なんということもない。
単に、おもしろがってみるために、10両(150万円)も使うのが、むなしくおもえてきただけなのである。
冥土で、夫にあきれられそうな予感もしてきた。
初目見(おめみえ)を目前にひかえている銕三郎が、本気で甲府行きを決心するともおもっていなかった。
瓢箪から駒---とは、まさにこのことだ。
しかし、銕三郎が探索しようとしている女男(おんなおとこ)の盗賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 明けて29歳)という女賊(おんなぞく)には、こころが動いた。
昨年、甲府勤番支配で甥・八木丹後守補道(やすみち あけて54歳 4000石)あての添え状を書いた〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへい 45がらみ)とかいった小男の賊の件よりも、興味がある。
【参照】2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)
(あの実りなしの探索で、伊織(丹後守補道の幼名)どのの関心が薄れておらねばよいが---)
書状をしたためながらの於紀乃の心は、これであった。
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