〔橘屋〕忠兵衛
日中はまだ日ざしがきびしいが、陽がおちると、なんとなくしのぎやすくなってきている。
日没も、こころもち、早くなってきた。
六ッ半には、家々は灯を入れる。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、5の日なのを思いだし、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の料理茶屋〔橘屋〕の女中・お仲(なか 34歳)と一夜をすごすために、宵の七ッ(午後8時)前に鬼子母神(きしもじん)の一の鳥居前を左へ曲がろうとした。
鳥居の柱のかげから、
「長谷川さま」
声の主は、〔橘屋〕の女中頭・お栄(えい 36歳)であった。
「---?」
足をとめ、
(お仲に異変があったのか?)
即座に、そのことが浮かんだ。
そういえば、ここ、2度ばかり、5の日の通いを欠かしている。
〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)と妙なことになったので、なんとなくこだわるところがあり、足が向かなかった。
「長谷川さまがお見えになったら、ご本邸のほうへご案内いたすようにと、旦那さまから言いつかり、こうして、お待ちしておりました。ご案内いたします」
旦那さまとは、〔橘屋〕の主人・忠兵衛(ちゅうべえ 50すぎ)のことである。
(〔橘屋〕忠兵衛 『江戸買物独案内』 文政7年刊 1824)
「こころえましたが、お仲になにか---?」
「旦那さまがお話しになりましょう」
それきり、黙ってしまった。
(悪い報らせだな)
銕三郎は、覚悟をきめた。
鬼子母神の参道へ入り、三の鳥居の先を右へ折れて境内をはずれた。
(雑司ヶ谷・鬼子母神の参道に、二と三の鳥居が見える
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ )
〔橘屋〕忠兵衛の本邸は、そこから半丁も行かない木立の中に、前庭をひろくとっていた。
お栄は、玄関で銕三郎を小間使いのおんなへ引きつぐと、会釈して帰っていった。
案内された部屋は、簡素だが、趣味のいい什器が置かれていて、忠兵衛の感性をうかがわせる。
この部屋にくらべると、お仲と寝る客用の座敷は、華やかすぎるように思える。
小間使いが茶菓を置いたのと入れ違いに、恰幅のいい忠兵衛が満面に笑みをうかべてあらわれた。
(どうやら、悪い話ではないらしい)
「組頭さま、ご内室さまには、お変わりはございませんかな」
忠兵衛は、父・宣雄が若かったときからの知り合いである---というより、忠兵衛が恩義を感じている。
「お蔭にて、どちらも、つつがなく---」
「重畳々々---」
忠兵衛は笑みを消さない。
「拙に、なにかお話が----?」
銕三郎のほうから、切りだしてみた。
「おお、そのこと、そのこと---」
忠兵衛は、いかにも思い出したように、わざとらしく真顔になって、語った。
要するに、銕三郎の口ききで雇いいれたお仲だが、店の古くからの馴染み客が、後妻にとたっての所望で、お仲も承知したので、嫁にだすつもりで、先方の家へ移ってもらったと。
「この20日ばかりのあいだのことですか?」
「そう、鳥が飛びたつように、ばたばたと運びましてな。ご紹介くださった銕三郎さまにお断りもしないで申しわけないことですが、お仲の先行きのことを推しはかると、この機をのがしてはと---」
【参照】お仲が〔橘屋〕へ雇われた経緯 [〔梅川〕の仲居・お松] (4) (6) (7) (8)
[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
「で、お絹(きぬ 13歳)はどうなりますか?」
長谷川家の女中として働いていたお絹を、銕三郎が納戸町の長谷川家(4050石)の老叔母・於紀乃(きの 69歳)の世話係に転じさせた。
「その娘(こ)も、いずれ、引きとって嫁にだしてもらうことになっております」
「それなら、拙から言うことはありませぬ」
「ご了解いただけましたか。かたじけのう---」
「こちらこそ、おこころづかい、重々、謝辞をのべます」
そう言いながら、銕三郎は、手の中の珠たま)を獲られたようなこころもちであった。
11歳も年上のお仲であったが、なんでも飾ることなく打ち明けられる、姉であり情婦でもあった。
帰り道、お仲を後妻にした男の名前も住まいも年齢も商売も聞いていないことに気づき、話が真実とはおもえなくなった。
が、すぐにおもいなおした。
(そうだ、徒(かち)目付の探索の目がお仲へおよばないうちにと、父上が忠兵衛どのへ頼んだことかもしれない。お目見(みえ)も近いことだし---)
そのことを告げられたら、お仲も承知せざるをえなかったろう。
(いまは、はいった先で、お仲が大事にされることを願うばかりだ)
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