銕三郎、ニ番勝負(3)
東軍流の斉藤道場は、和泉橋の北詰から2丁とない、神田松永町にあった。
松永町からさらに1丁も北行すると、新妻・久栄(ひさえ 17歳)の実家の大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 56歳 300俵 西丸・新番与頭(くみがしら))の居宅である。
(緑○=神田松永町の斉藤道場 和泉橋通り)
久栄が長谷川家の嫁となる前は、おまさ(13歳)の手習いをみてやっていたあとの久栄を、和泉橋とおりの大橋家まで、よく送り、途中の竪川や神田川の川岸の並木にもたれて、口を吸いあったものである。
迎えてくれた斉藤五郎左衛門兼継(かねつぐ 68歳)は、細身の体形で、総髪は真っ白であったが、さすがに眼光はおとろえていなかった。
高杉銀平(ぎんぺい 63歳)師より3つか4つ齢上に見える。
「高杉さんはお達者かな」
さすがに声は枯れているが、よくとおった。
「はい。斉藤先生にくれぐれもよろしゅうお伝えするようにと、仰せつかりました」
「高杉さんと試合ったのは、もう30年以上も前のことだ」
「うかがったことはございませぬが---」
「形原(かたはら 松平)紀伊守(信岑 のぶみね 42歳=当時 奏者番 5万石)侯が、まだ丹波笹山藩主のころで、な」
東軍流の同門で、篠山藩の師範をしていた川崎源助の口ききで、鍛冶橋内の上屋敷・内庭で、他流の遣い手との御前試合がおこなわれた。
斉藤勝継の相手は一刀流の高杉銀平で、双方が構えた瞬間に、斉藤は小手をとられていた。
「むしろ、ここちよい負けであったのですよ。いや、昔ばなしをしていても、せんない。高杉さんからの文面によると、備前・岡山の浪人が遣っているのが東軍無敵流とか---」
「拙が聞きましたのは、東軍流ということでございましたが、わが師が、備前・岡山の浪人ならば、東軍無敵流であろうと申されまして---」
「そこまでご推察とは、さすがに高杉さん。もちろん、入江姓を名乗って東軍流を伝える者もおることはおり申す。その浪人者の姓は、なんと?」
「それが、〔殿(との)さま〕栄五郎としか---」
「ふざけた〔呼び名〕を使う仁じゃな。東軍無敵流の教えているのは坂口八郎右衛門(はちろうえもん)といったが---」
斉藤五郎左衛門によると、東軍流がどちらかというと正攻法の剣術なのに対し、それから別かれた坂口八郎右衛門は独自に槍術と居合を加えたと。
まさか、江戸の町中で槍を遣うわけにはいくまいから、
「その、栄五郎とやらが遣うとすれば、居合ではなかろうかのう」
居合なら、高杉師から仕込まれてもいるし、道場の食客・小野田治平(じへい 40歳前)からも、かなり教わっている。
【ちゅうすけ注】小野田治平は、武蔵国多摩郡(たまこおり)布田(ふだ)五ヶ宿の郷士の3男で、不伝流の居合術の秘伝を銕三郎(てつさぶろう 24歳)や岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)に教えたと、『鬼平犯科帳』巻7[あきらめきれずに]にある。
布田五ヶ宿は、掏摸(すり)の〔からす山〕の寅松(とらまつ 18歳)が住まいから1里20丁(6km強)ばかり府中寄りである。
(そういえば、寅松が銕三郎と久栄の婚儀に借り衣装の紋付袴でかけつけてきたことを書きわすれていたなあ)
出村町の道場へ戻り、斉藤五郎左衛門の言葉を伝えると、高杉師は、さっそくに小野田治平を呼んで、居合のはずし方を銕三郎へ伝授するように頼んでくれた。
【参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] (1) (2)
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] (1) (2) (3) (4) (5)
【参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 9)
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