ちゅうすけのひとり言(34)
つい先だって(5月16日)の[銕三郎の初見仲間の数](5)に、徳川幕府の正史ともいえる『徳川実紀』に記録されている、将軍家への幕臣の嫡子の初見の記述が、正確ではないのではないか、と疑問を呈した。
ことは、銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)が初見の儀式にまかりでた日---明和5年(1768)12月5日の記述である。
『実記』は、30人が初お目見(めみえ)したとして、うち16人の保護者の肩書と氏名および当人の続柄と氏名を明記している。
【参照】2009年5月12日[銕三郎、初見仲間の数]
(1)
銕三郎はもちろん、明記組にのほうに入っている。
それで、氏名が記されなかった14人を『徳川重修l諸家譜』の活字本22冊をぱらばらくって、以前に見つけていた顛末と、G.W.にさらに補った経緯は、[銕三郎の初見仲間の数]の上記(1)に報告している。
文頭に引いた(5)には、新撰組と鬼平の研究家である釣 洋一さんが、『寛政譜』を精査して、じつは明和5年12月5日に初見したのは133人と、驚くべき数字をおあげになっていたことにかぶせて、こと、初見の人数に関するかぎり『実紀』のそれは不正確のようだ、との私見を加えて、報じている。
しかし、いまのところ、そのことについて、反応をしめしたくださったのは〔みやこのお豊〕さんのみで、歴史家、郷土史家の方々からは、なんの示唆もない。
にもかかわらず、こんな報告を追紀するのは、糠にさらに釘を打つことになろうが、じつは、また1人、疑わしい人物を発見したので、記録として、あえて記しておく。
発見の経緯は、こうである。
釣さんのリストに、小林姓の者が4人いた。
うち、1人---小林新蔵従種(よりたね 24歳=当時 60俵2人扶持)については、すでに2008年12月9日[銕三郎、初お目見](7)を挙げている。
きょうの3人とは、別の系統の同姓小林である。
それで、格式のあるほうの小林一門の『寛政譜』を、いつものようにコピーしてA3版に貼り付けて、一覧性を高めた。
A3に9葉、38家。
うち、明和5年12月5日に初見と記されているのは、
(年齢は、初見年の数え齢)
小林仙太郎正方(まさみち 23歳 450石)
小林善兵衛正芳(まさよし 29歳 250俵)
小林惣兵衛正察(まさあき 25歳 200石
50俵)
小林孫太夫正意(まさとも 22歳 150俵)
4人は、釣さんのリストにも挙げられている。
もう1人、明和5年10月15日に初見したと書かれた、
小林太郎八信安(のぶやす 34歳 300俵)
がいた。
、『実紀』には、この年、10月15日に初見があったとは記録されていないし、明和元年(1764)から4年までの5年間、10月にこの儀式は行われていない。
とすると、『寛政譜』の誤りとみていい。
こじつけると、12月5日の誤記か誤植であろう。
もちろん確定するには、小林家が幕府に提出した「先祖書」の稿本をあらためるしかないのだが。
(太郎八信安・個人譜 初見の日付は疑問)
以下の『寛政譜』は読めなくても、感じをつかむための掲示。
(太郎八信安 300俵 一門38家中9番目 9j葉中3葉目)
(仙太郎正方 450石 一門38家中13番目 9葉中4葉目)
(善兵衛正芳 250俵 一門38家中21番目 9葉中5葉目)
(惣兵衛正察 200石50俵 一門38家中4番目 9葉中2葉目)
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