田沼意行の父(2)
田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳=明和7年 老中兼側用人 相良藩主 2万5000石)と長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 25歳)とのかかわりあいを、[相良城、曲輪内堀の石垣]と題し、2009年5月4日(1)から(2)(3)(4)と4回つづけた。
【参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] (1) (2) (3) (4)
というのも、父・宣雄(のぶお 52歳=明和 先手・弓の8番手組頭)の代から長谷川家(400石)の諱(な)となった平蔵を引き継いだ銕三郎宣以が、41歳という若さで先手の組頭に登用されたのも、実力老中だった意次に引きたてられたからである。
もっとも、その分、意次が門地門閥派によって失墜したあと、その派の代表格としてまつりあげられた老中首座・松平定信(さだのぶ)から、平蔵は田沼派もしくは田沼的体質としてにらまれ、物要(い)りな火盗改メを足かけ8年間もやらされ、備蓄を大きく減らしてしまったばかりか、借財をつくった。
そのことは、いま書いている当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]の16年先の経緯である。
歳月の引きもどしついでに、80年ほど、遡る。
この5年間、静岡駅ビル7階、SBS学苑パルシェで、月1回(第1日曜日の午後)、[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんから、膨大な史料とともに、手紙をいただいた。
安池さんが、いま、田沼意次の父・意行(もとゆき)の実父を調べていることは、当ブログの2009年3月4日の[田沼意行の父](1)で報告しておいた。
↑の色変わり(1)をクリックで再読なさってから、今日のテキストをお読みいただくと、理解が微細におよぶはず。
じつは、安池さんのリポートは、4月初めにいただいていた。
内容が、三河国の長篠菅沼にもかかわりが深いので、宮城谷昌光さん『風は山河から 全五巻』(新潮社)をひろい再読したりしていて、ご紹介がおくれた(しかも、この1回では足りない。順次、つづけたい)。
まず、安池さんの「田沼意行の出自の調査について」と題した手紙の前文から。
内容の点で進展はないのですが、資料の点では前進があったと個人的には考えておりますので、途中経過を報告させてください。
「山家三方衆」 編集:長簾城祉史跡保存館
宮城谷昌光さんの『古城の風景 Ⅰ』のなかで、長篠菅沼氏に関連して「山家三方衆」の解説がありましたので読んでみました。
長篠菅沼氏については、新城市教育委員会が所有している菅沼家譜・子孫蔵の家譜や菩提寺の過去る帳・墓碑などにより、現代にいたるまでかなり詳細に調査してあります。
また、『南紀徳川史』の名臣伝に菅沼半兵衛正勝について記載されていることも紹介されております。
但し、本のなかでは、二男以下まで全ての人が記載されている訳ではありません。
集められた資料のなかにはそれらのことも記載されている可能性はあります。
長篠城祉史跡保存館に確認したところでは、この資料については館内に展示されていることはなく、前館長(故人)の個人的な保有となっているそうです。
その資料の整理はしたいが、現在のところは手が廻らないとのことでした。
菅沼家「系譜」
--明治4年に菅沼家10代目が提出したもの 和歌山県立文書館保管--
1年程前、和歌山県立文書館に「田沼意次の父親にあたる人を養子に出した菅沼半兵衛という人の資料を捜しているのですが---」と、今から考えると随分漠然とした事項の調査をお願いしてしまいました。
そのときは、それでも調査していただいたのですが、「皆菅沼半兵衛を名乗っている家はあるが、何代も続いているから、諱がわかりませんか?」と問い返されて終わりになってしまいました。
「山家三方衆」を読んで、長篠城祉史跡保存館に問合せをして、この件に関して、こちらから、それ以上の情報収集は難しいと考えた後、「和歌山県立文書館」のことを思い出しました。
1年前には、気がつかなかったホームページを発見。
文書館で保管している古文書類」の「館蔵文書」として「紀州家中系譜並ニ親類書上」とあります。
早速、電話にて照会しました。
1年前にも照会させていただいたことなども、くどくどと言訳がましく説明し、判明しているかぎの諱も申し上げて、菅沼家の系譜があればコピーを送っていただきたいとお願いしました。
担当者のM さんは時間がかかるかもしれませんよといいながらも、そんな系譜があるか調べて下さるとのことでした。
結果として、M さんの「ありましたよ」という弾んだ声のお返事をいただました。
入手した系譜はいわゆる古文書に該当するもので、何という文字か判別できなかったり、判別できてもどういう意味か容が理解できなかったりという部分はありましたが、自分なりに検討したところでは別紙「菅沼家『系譜』の検討」に記載したとおりで、田沼意行が菅沼家の出身であるという結論は出ませんでした。
現在は、性懲りもなく、『寛政重修諸家譜』のなかで、田沼意行が養われたと記載されている「田代七右衛円高近の系譜」がないかとM さんお願いしているところです。
安池さんの、この探索手つづきは、読んでいて、わくわくしてくる。
ビジネス社会で活躍後、時間的に自由な身となり、やりたかった研究テーマを追い詰める方にとっても、大きく参考になろう。
さて、肝心の、安池さんが解読・現代語訳などは、後日。
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