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2009.08.24

化粧(けわい)指南師のお勝

松造(まつぞう)。〔延吉屋〕が大戸を下ろす前に行き、化粧(けわい)指南師のお(かつ 31歳)どのに、この結び文をわたしてくれ。そのあと、〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 40がらみ)2代目に、こっちの文をわたし、返事を聞いてきてくれ。いいか、間違えるなよ。重いほうが角兵衛どのあてだぞ」
「わかりやした」

21歳の松造は、おあての結び文をうけとるとき、にやりと笑みをこぼしたようだが、顔を下にむけて隠した。
そんな松造思惑など、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は先刻、見抜いている。
だから、〔左阿弥〕の角兵衛あての手紙には、南鐐二朱銀(2万円)を2枚しのばせ、角兵衛からの形で、
「今夜は、どっかで羽をのばし、若はんを好きにしておあげなはれ」
と言ってもらうように仕組んだのである。

銕三郎主従が借家している押小路の路地裏のしもた屋から、四条上ルの白粉舗〔延吉屋〕までは堺町通りをまっすぐに南へ7丁(800m)もない。

_100小半刻(30分)をちょっとすぎたころに、おが堺町通りへあらわれた。

「お、こっちだ」
物陰で、銕三郎が待っていた。

「あら。松造どんは〔左阿弥〕の元締めのところへ行くって言ってたから戻ってくる間に---と、あせったんですよ」
は戻らないが、あの家ではまずい。高瀬川ぞいとか四条から二条までのあいだに料理もだす出合茶屋があるだろう」
「私はかまわないけど、(てつ)さまは---」
「押小路の家は、見張られているようだ」
「誰にですか?」
「たぶん、町奉行所---」
「なぜ?」
「父上の差し金だろう」

四条大橋を東へわたって左へすぐのところに〔俵駒〕と軒行灯(あんじん)を点(とも)した、それらしい店の、離れに案内された。

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(料理屋〔俵駒〕東川端四条 『商人買物独案内』)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻3[艶婦の毒]で、おたか木村忠吾(ちゅうご)に2度目の密会場所として指定をした料亭〔俵駒〕は、高瀬川ぞいだから、池波さんは、銕三郎とおが入った〔俵駒〕の名を借りたのであろう。

が、屏風の向こうに敷いて2つにおられている布団にちらちらと視線をなげるのを、銕三郎は見て見ぬふりで、ふところからを書き物を取りだし、示した。

[顔の形に似合う髪の結いよう]
・丸顔の人は、髻(わげ)を小さめに結うほうがさまになります。鬢(びん)の生えさがりはみじかめに。

ちゅうすけ注】髻(わげ)は頭頂で束ねたもとどりのあまりの毛。江戸では髷(まげ)と呼んだ。

・小顔(こがお)の人は、髪を大きめに結い、鬢(びん)の生えさがりを長めに。
・首筋が短めの人は、髪を高く結ったほうが見栄えがします。
Up_150
・反対に、首筋の長い人は、ぼんのくぼの生え際を長めの2本足につくりましょう。
・顔の長めの人は、髻(わげ)をひらたくつくると美しさがまします。
・額上(ひたい)が短い人は、前髪を立てるかんじにするときまります。
・額上の長い人は、前髪をまえにかたむけ気味にすると女前があがります。

ちゅうすけ注】江戸後期にでた左山半七丸『都風俗化粧伝』(東洋文庫)を参考にさせていただいた。

さま。これでは、髪結いの---」
「紅白粉の使い方は、おの仕事だから、書いてしまっては、化粧指南師の手さばきと口上のうま味が薄くなる」
「〔延吉屋〕に髪結い部屋もつくるということですか?」
「察しがいいな」

銕三郎は、江戸の髪結い・お(しな 24歳)のことを思い出していた。
は、〔小浪〕の客だったが、〔衣板(きぬた)〕一家で、同郷の〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち)とできしまった。

参照】2009年6月23日[銀波楼〕の今助] (
2009月6月29日~[〔般若(はんにゃ)〕の捨吉] () (

なんだか、遠い昔のできことのような気がした。

「それで、〔化粧読みうり〕は、いつ刷りあがるのですか?」
の問いかけに、われに返った。

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コメント

文くばり丈太さまも、昨日のお披露目枠の売り方に感心したようにコメントしていらっしゃいましたが、今日の「都風俗化粧伝」の引用にも驚きました。
髪を結った江戸時代と、短髪の現代とでは美意識も違いますが、それなりにおしゃれに気をつかっていたことが、文献で示されて、納得の感じ。
それにしても、たいへんな量の史料をめまぐるしいほどに掲示していただき、居ながらにして大学の教室にいる感じを味わっています。


投稿: kiyo | 2009.08.24 05:51

>kayo さん
史料は、若いときから無理して買ってきましたが、あるとき、不良古書店(南〇堂書店--札付きとあとで判明)にだまされて取られたのと、『御仕置例類集』を求めるために下取りにごそっとだしたのとで、大分減りました。いずれも、ブログを始める前のことです。

減ったおかげで、書斎・書庫がゆったり使えるようになった面もあります。

投稿: ちゅうすけ | 2009.08.24 10:00

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