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2009.09.24

『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

_120誘眠剤がわりに、ふと手にとった『現代語訳 翁草(おきなぐさ) 上・下 』(教育社 1980.6.25)に、
(もしかしたら、これに、禁裏賄役人の不正の顛末が---)
とおもい、眠りをやめて調べたが、それらしい気配はない。

翌日、図書館で、吉川弘文館『日本随筆大成』の借用を申し込んだ。
翁草』は全6巻というすごい量だったが、目次を瞥見していくうちに、
「あった」

本文は以下、原文のままあげるが、鳶魚翁のネタ本と断じてもよさそう。
もっとも、『翁草』の著者・神沢貞幹(ていかん)自身が諸書から書き写しており、元本の書名を記していないから、軽々にきめるわけにはいかない。
しかし、内容はすこぶる、近似している。

 禁裏御賄役人処刑

禁裏御賄の儀は御所々々大抵御分量有て御代官小堀数馬方にて、月々の御勘定を仕上る帳面を作り、町奉行へ差出し、町奉行に於て是を算当(サントウ)して相違なければ、其帳面を所司代へ差出し、所司代より関東へ言上有るなり。

然に月々臨時の御物入多く、禁裏御物成(ナリ)銀にては、始終御不足なる故に、余銀を以て御取替被置、其秋の
御収納は、直(スグ)に其冬より、春迄の御賄料となれ共、無程御遣ひ切りと成ゆゑ、また余銀にて御取替に成。

畢竟御取替と申は、名目計にて、御不足の分は足し被進、実は渡り切りなれ共、名目を御取替と唱ふる事なり。
斯る温和(オンクハ)なる御風俗に誇りて、御賄掛りの役人、不廉直多く、先年も余り過分の御物人の節、公儀より少し其御汰有之けるに、結句其翌月猶御人用増ける侭、愁(ナマジイ)に御綺(イロヒ)有ては益御入用累(カサナ)るにより、其後は一向其御さたにも及ばず、是上々に実に御不足ならんは如何せん。

全く左には非ず、役人の私曲重畳して、何方よりも察当なきに乗じて、思ふ優に挙動、讐ば諸の御買上げ物に、二重証文を売人に書せ、若干(ソコハタ)高直(ジキ)の証文を以、御勘定に立る、其身の栄耀歓楽は云べからず。

下司の者迄も十手(ジウシュ)の指す奢超過して、関東に聞え、安永三年京町奉行山村信濃守始て上京の節、台命を奉って罷登られ、所司代土井大炊頭へ奉書を以て御下知有之、御賄頭を始、御賄掛りの者共、悉く召捕れ、夫々揚屋へ入れ、一々糺明せらる処に、一言の申披(ひらき)無之、重立候者共牢内に於て死刑に処せられ、或は流刑に滴せられ、下司の軽きに至迄、追放国中払等に成り、而して関東より御勘定役人余多登り、更に御賄方を勤む。

御賄頭には江戸御勘定御目見の者を被任、其余は支配勘定以下の軽き役人を差登せられ、夫々欠役を勤め、此御吟味掛り、山村信濃守井禁裏御附天野近江守立会、是を頭取て支配し、総て京都御入用事の取極りを相兼、是迄江戸へ相伺ひし小事は、向後京都に於て評定を遂げ執計べしとて、与力同心にも、此掛役人出来、一味吟味相済ぬ。

今般坐せられたる御賄方の名前左記。但科書焼失故爰に略す。

 安永三甲午年八月二十七日

        於牢屋敷死罪
 田 村 肥 後   津 田 能 登  服部左衛門
    存命に候得ば同罪 西 池 主 鈴 吟味中死
        遠 島
 高屋遠江 藤木修理 山本左兵衛 山 口 日向 関 目 貢
        中追放
 渡辺右近 本庄角之丞 世続右兵衛 久保田利兵衛 佐藤友之進
 小 野 内 匠
  其外洛中洛外井江戸構余多、
  死罪の者伜は遠島、十四歳迄親類預け
  遠島の者の伜は中追放、右同断
中にも遠島、高屋遠江は、三味線に長じ、且猿楽の能を善し、度々御能をも勤め、皆人堪能を称しける。
前巻に記せる如く、左こそ島人の賞翫他に異ならめと、思ひやる計なり。


さて、昨日の『幕末の宮廷』とあわせると、この件は、ほとんど経過・結末が見えてしまう。
京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)がからんだという史料がでてくる気配はきわめて薄い。

残念だが、銕三郎(てつさぶろう 27歳)に事態の収拾を命じなければ---。

ついでに記す。
神沢貞幹は、京都町奉行・与力の家へ養子へ入った。東・西いずれか未詳。病弱を理由にはやばやと奉行所を辞職、『翁草』の執筆に専念。
前編成立の時は、宣雄・銕三郎が入洛した明和9年(1772)、貞幹63歳のときと。

後編の成立は、平蔵宣以が江戸で゛火盗改メの任についていた寛政3年。

        ★     ★     ★
[命婦(みょうぶ)、越中さん

[御所役人に働きかける女スパイ] () () () 

幕末の宮廷

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219参考図書」カテゴリの記事

コメント

似ていますなあ。とくに処分者の書き順など。
ただ、氣になるのは、死罪の項で、飯室左衛門大尉の名がなく、服部左衛門になっていますね。
どう解釈すればいいのでしょう?

投稿: 左衛門佐 | 2009.09.24 04:30

>左衛門佐 さん
ぼくにものみこめないのですが、苗字はともかく、名前がおなじ左衛門ですね。
ひょっとしたら同一人物かも。
もっとも、東町奉行所の加賀美千蔵同心が、飯室は武田方と言っていましたね。
武田方の御近習衆に、飯室与左衛門とその子・庄左衛門、山県衆に飯室内丞、八郎兵衛、跡部の同心に飯室次郎兵衛の名がみえます。
うち、飯室与左衛門とその子・新助が家康に仕えました。
名をあげたうちの誰かが京で禁裏に職を得ていたのかも。
服部となると、分布が広すぎて、推理もおぼつきません。

投稿: ちゅうすけ | 2009.09.24 08:45

今更ふと考えたのですが、鳶魚翁の「御所役人」ものでは飯室左衛門の扱いがやけに詳しいものになっていたような気がします。
翁草や下橋翁の講話では触れられていない飯室がまるでこの一件の中でも特に悪質なものだったかのような書かれぶりです。

ですが、御仕置例類集1460番によると、
死罪になったのは、「田村肥後、津田能登、服部左門、西池主鈴」の四名、流罪は「高屋遠江、藤木修理、山本左兵衛、山口日向、關目貢」の五名(及び父が死罪になったその息子)で、飯室は追放刑になったものの中にいるように読めます。(解釈間違っているかもしれないので、確認できたらお願いします。追放になった左衛門尉は杉山左衛門尉かも・・・)
ほぼ翁草と同じ内容です。
飯室左衛門は判決理由に名前が出てくるけれど、各処罰の対象リストの中ではっきり名前が出ていないので、追放されたその他何名の中に入っているのか、あるいはお構いなしか?(官位は剥奪されたようですし、真っ先に逮捕された中にはいるようです)

御仕置例類集の判決を見た限りでは、飯室左衛門は主犯クラスではなさそうに見えます。にもかかわらず、鳶魚翁の「御所役人」物では、大きく扱われ、死罪の四名の中に服部左門にかわって入っている。

鳶魚翁が出典にされたもの、おそらく「実録体小説」の類いだと思われますが、その元ネタの作者は飯室に恨みを持っていて、「彼が死罪になっていてほしかった」という意志を持っていたのではないでしょうか?(妄想の域に入ってしまいますが)
そして中井清大夫の出自に対してもかなり詳しい知識を持っている。
上方の人、もしくはある一定の時期に長く上方に居住していた人が書いたものかもしれません。

投稿: asou | 2010.02.25 15:10

>asou さん
ご指摘の『御仕置例類集』1460の関目 貢の裁決に、

左衛門尉儀は、森志津摩ほか百拾壱人同様之ものと相聞候間、江戸を構・洛中洛外払

とありますから、お説のとおり、追放ですね。
鳶魚の思い違いのようです。

投稿: ちゅうすけ | 2010.02.26 11:40

鳶魚翁がなにを元ネタにされているか、はわからないのですが、この女スパイ話を事実だったと鳶魚翁はなぜか確信している理由について参考になるかもしれない記述を見つけました。
鳶魚全集二十二巻収録「文学史に省かれた実録体小説」に書かれていたものです。
329頁「一体我が国には裁判小説はあっても、探偵小説はなかった。」
330頁「御家騒動の趣向から、自然に話が大名の奥向に付いて回り、女子のみの取り籠った場所だけに、陰鬱な気に満ちている、大抵な大名の家々の奥にはきっと妖怪談がある。
極彩色の御殿女中の奇麗事の後に、薄ドロに焼酎火の幽霊、目先を替えるためではなくても、怪談の流行を生じたのに、これはまた捌き物が久しく景気を続けている間に、何で探偵物が頭を擡げなかったろう、殊に天明度の御所役人収賄事件を検挙した時、京都町奉行山村信濃守の手の下に女探偵が目覚しい働きをした、享和度の延命院事件でも、寺社奉行脇坂淡路守は、事件の副員を知るために、家来の娘を遣って偉功を奏した。
これらにさえ探偵譚は成立しない。江戸時代の人間は、全く探偵の興味を感じなかった。畢竟闇中に飛躍する、後暗いどころか前も左右もことごとく暗い働き、ただ残虐酷薄な感じが先へ立つ、隠密という言葉さえ、明るい好きの江戸人には嫌われた。
流れ川で●(尸に穴)を洗ったような奇麗サッパリ、奥底のない真ッ裸でゆきたい心持、それが働けば働くほど、いよいよますます陰険になり、残忍になる、その温かい血のない魚族に等しい人達を、面白く眺めさせようったって無理なことだ。
働く人も同情同感であって、ただ君明であり、役目であり、天下公共のためであるから、あえてその作業に従うまでなのである。
自身でも働いた手の痕、足の跡を語られるのを厭い、語るのはなおさら嫌う。憚りながら、探偵の興味などはバタの臭いのと同道で、異人さんの国から持ち込んだもので、我が国にはかつてなかったというのが、我等の大自慢の一つである。」

長くなってしまいましたが、そういえば、大岡政談、鹿政談など落語や講談になったものにも、密偵を使っておとり捜査をしたようなものは思いつかないです。探せばあるのでしょうか・・・
少なくとも江戸時代に成立したことが確かなものでは、スパイものとか隠密を題材にするよりも、お白州で名奉行が問答する過程で、悪人にしっぽを出させるのが常道だったような・・・
そういう信念をお持ちだったため、鳶魚翁はこの女スパイ話の元ネタを見たときに、
いわゆる「実録体小説」でなく事実と認定してしまったのでは?
よくよく突っ込めばおかしなところがいくらも出てくるにもかかわらず・・・
山村信濃の経歴が違っていることや、飯室左衛門が死罪のリストにあり、服部左門と入れ替わっていることなど・・・

投稿: asou | 2010.03.23 18:19

>asou さん
いつも、ドキっとするような鋭い説をお教えいただき、ありがとうございます。
鳶魚にそんなエッセイがあったとは!
ご指摘になった『大岡政談』(東洋文庫)は2冊とも所蔵、ずっと前に読みましたが、そのときは池波小説『雲霧仁左衛門』のもとネタさがしとして扱いましたから、御所の女スパイには考えが及びませんでした。
暇をみて、スパイ・ダネがあるかどうか、読み直してみます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.26 05:29

最初に読んだときには、読み飛ばしていたり、気付かなかったことが後になって気になってくることってありますね。
以前、この件について調べていて、ある程度史料が尽きてきて手詰まり感があって、ずっと塩漬けにしていたものが、こちらのブログに書き込ませていただいてから、昔気付かなかったことが気になってきたことが結構、出てきました。ネットの効用ですね。

「御所役人に近づく女スパイ」の中に延命院事件についても書かれていたはずなのに、今までは読み飛ばしていたのですが、この件で女性の密偵を使ったのは確かなのでしょうか?
事件の性質(僧侶と奥女中の密通)からいって、女性でなければ付きとめられなかった可能性はありますが、これが真実もしくは、その当時から寺社奉行脇坂淡路守が密偵を使ったと広く信じられていた(真偽はともかく)なら、むしろ、鳶魚翁が元ネタにされたものは、この延命院事件の女スパイにヒントを得て「創作」された可能性はないのか?
江戸っ子は密偵や隠密は嫌いかもしれないけれど、江戸以外、たとえば、上方の人たちの好みは違うのではないか?元ネタは上方で書かれたものではないのか?
幕末もしくは明治以後に成立した「探偵小説」をもっと前の時代に書かれたものと鳶魚翁が誤認してしまった可能性はないのか?

なにを見て、あの「御所役人に近づく女スパイ」を書かれたのか、気になります。

なんというか、一部にすごく正確だったり(きっかけは因幡薬師であるらしいこと、中井清太夫の出自など)するのに、山村信濃の経歴や事件当時、存在しない「禁裏付・水原摂津守」が出てきたり、少しの真実とかなりの間違いの混在している感じがなんとも・・・

投稿: asou | 2010.03.26 15:33

>asou さん
碩学asou さんのことですから、『藤岡屋日記』はおあたりになっているんでしょうね。

ぼくは、いつかも書きましたが、この件は、みなさん、山村信濃に注目していますし、それはそれで正しいのでしょうが、鬼平の父・長谷川備中も入念な人と評価されていたから、なんらかの関係があったのではないかと妄想していたんです。
彼を突然、西町奉行につけたというあたりをもうしこし考えてみます。
時の勘定奉行は田沼の腹心の石谷淡路ですしね。

このブログにコメントをお寄せになることで、asouさんの研究がいくらかでも進展しているのなら、これほどよろこばしいことはありません。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.27 02:43

>『藤岡屋日記』
第一巻が文化元年からなんで、今まで除外していたんですが、延命院(これも享和なんで少し前になりますが)のことについて出ていないかと思って読んでみたんですが、今のところ安永の御所騒動も延命院事件もなさそうですね。(文化十年あたりまでざっと見てみたんですが)

もしかして「坊主びっくり貂の皮」で脇坂淡路守が寺社奉行に復活した時期も確認した方がいいかもしれませんね。

投稿: asou | 2010.03.27 20:42

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