女将・里貴(りき)のお手並み(2)
「ようがす。加平(かへい 24歳)によっくいいふくめておきやす」
駕篭屋〔箱根屋〕の主(あるじ)・権七(ごんしち 42歳)が引き受けた。
加平は〔箱根屋〕の舁(か)き手なのだが、平蔵(へいぞう 30歳)の密命をうけて、時次(ときじ 22歳)とともに三河町の〔駕篭徳〕に詰めている。
一橋北詰の茶寮〔貴志〕で飲食を終えた客だけを乗せ、帰る屋敷を手控えて平蔵へ報じてきた。
加平と時次の正体は、まだ、里貴(りき 30歳)にはあかしてない。
安永4年1月16日、平蔵は夕餉(ゆうげ)を、与頭(くみがしら)の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳 800俵)と摂(と)ることになっていた。
牟礼与頭のほうから、〔貴志〕の女将・里貴に会いたいとのぞんだのである。
【参照】2010年4月11日[内藤左七直庸(なおつね)] (3)
牟礼与頭が里貴のこころづくしに感服したことのおこりは、じつは平蔵のさしがねであったのだが。
【参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] (2) (3)
〔牛込(うしごめ)築土(つくど)下五軒町にある牟礼の屋敷へ、加平たちの迎えの駕篭が七ッ半(午後5時)の小半刻(30分)前に達しているように、権七に念を入れたのである。
もちろん、里貴には、当日の飲食代と送り迎えの駕篭料、手土産には本町1丁目の菓子舗〔鈴木越後〕の折箱代として、お勝(かつ 34歳)から渡された6朱(6万円)を前渡ししていた。
(当時、江戸一番の菓子舗といわれていた〔鈴木越後〕
『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)
【ちゅうすけ注】2007年5月28日[宣雄、先任小十人頭へご挨拶]
森山孝盛が上記に記している〔鈴木越後〕の菓子折が1両(16万円)もしたというのは、森山特有の誇大癖といえようか。「手記」を冷静に読むと、自分であつらえたことではなく、噂を記しているとしかおもえない。田沼時代をことさらに悪くおもわせるためである。
どんなに高くても、2朱(2万円)もとったらほかとの競争に負け、松平定信の緊縮時代はおろか、維新まで店がもったはずがない。
維新時の当主が「うちの味が、薩摩や長州の田舎者の舌にわかってたまるか」と店を閉めたという伝説がのこっている。
2006年06月06日[『鬼平犯科帳』のもう一つの効用]
(お勝へ返すのは、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元料のあがりの裾分けが権七からきたときにすればいい)
平蔵は勝手にきめこんでていた。
いい気なものである。
とはいえ、おんなたちが平蔵につくすのは、平蔵にそなわってっている徳と、やさしさのためもある。
現代の上司も、女性の部下に慕われ.るかどうかで、業績の半分近くが左右されるともいわれている。
牟礼与頭の駕篭が着いた。
玄関先で待ちかまえていた里貴が先頭にたち、駕篭から降りる勝孟に白い手をさしのべて躰を支えたのには、その背後にいた女中頭のお粂(くめ 34歳)が、あやうく驚きの声を発するところであった。
開業から2年半になるが、客にそのようなことをした里貴を見たことがなかったからである。
はづかしかることなく掌をあずけた牟礼は、
「長女にしてもらってから、このかたのことである」
悦にいり、履物を脱いでも放さなかった。
里貴も里貴で、片手は牟礼の腰に添えられていた。
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