〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(3)
「日信尼(にっしんに)どの。来たぞ。しっかり見定めてくれ」
平蔵(へいぞう 32歳)が駕篭にささやきかけた。
尼がにんまりうなずく。
小舟j町3丁目、荒布(あらめ)橋の東詰であった。
駕篭がおかれ、舁き手か煙草をすっていた。
舁き手は、深川・黒船橋の北詰、〔箱根屋〕の加平(かへえ 27歳)と時次(ときじ 25歳)らしい。
道側の垂れをおろし、簾窓(すまど)ごしに目をこらしているのは、尼頭巾をかむっているが、あいかわらず艶っぽいお信(のぶ 36歳)であった。
半月前に、深川・霊巌町の日蓮宗の名刹・浄心寺の塔頭(たっちゅう)のひとつ、尼寺・浄泉庵で得度をうけたばかりで、法名は日信尼。
庵主の日俊尼(にっしゅんに 70歳)が授名してくれた。
この変わり者の日俊老尼の挿話はのちほどということにし、いまは、浄信尼の視線の先に注目しよう。
うしろにまわした両腕を腰縄にむすばれ、両脇を小者に護衛された老囚がそれである。
大伝馬町の囚獄から、麹町・御厩谷(おうまやがたに)の火盗改メの役宅へ取り調べのために召されていた。
もちろん、老囚につきそっている同心・脇田裕吉と平蔵が相談したうえでの、その日の連行であった。
上総(かずさ)国望陀郡(ぼうだこおり)百目木(どめき)村育ちという大伝馬町の牢番が、獄囚の伊三(いぞう 58歳)が上総なまりで話すと洩らしたので、平蔵にひらめいた案であった。
俗世で〔不入斗(いりやまず)〕のお信と呼ばれていた日信尼も、百目木村に近い市原郡(いちはらこおり)の生まれということで、もしや、顔見知りの賊ではないかと、こっそりと面相あらためをさせることにした。
連行の道すがらにしたのは、日信尼のことを、火盗改メに知られたくなかったためであった。
老囚の一行が荒布橋を西へ渡りきったので、日信尼ことお信が、垂れがおりていない側から墨染めをまとった身をのりだし、物陰にいた平蔵を手招きした。
「平さま。あれはまぎれもなく、〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ)という、〔飯富(いいとみ)〕の勘八(かんぱち 58歳)お頭(かしら)の弟分です」
(赤○=木更津 緑○=飯富 その右上の水色=下ノ池
明治20年参謀本部製作の20万分の1)
それだけ聞くと、舁き手に合図し、
「尼どの。先へ行き、待っていてください」
駕篭が向かったのは、なんと、法苑山浄心寺の東門前・山本町の小さな出会茶屋〔甲斐山〕であった。
出会の「会」を「甲斐」としゃれたのかとおもったらそうではなく、浄心寺の本山が甲斐の久遠寺からとった店名で、信徒たちや僧がこっそりこもって修行にいそしんでいるらしい。
ここをお信---日信尼に教えたのは、庵主・日俊老尼で、
「日信さんは、まだ、煩悩まっさかりじゃろが---煩悩は払わんと、おなごの躰には毒じゃ。煩悩おとしには、風呂場のあるところが一番。〔甲斐山〕は、寺の塔頭の1院としてとどけてあるからして、風呂場もついておる」
(深川 赤○=〔甲斐山〕 緑○=浄心寺)
現実の浄心寺とは無縁の架空の話です。
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コメント
言葉のなまりから、盗人の出身地がバレルということもあったでしょうね。
聖典『犯科帳』には、その趣向はありませんでしたが。
投稿: tsuu | 2010.09.15 05:31
>tsuu さん
おっしゃるとおり、お国なまりから身許がバレルことは、〔うさぎ人(にん)〕・小浪(7)http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/10/post-aa52.html に書きました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.15 09:59