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2010.10.24

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(5)

「大谷石の石切り場を、この目でたしかめたいものだな」
大谷寺(おおやじ)の山門を出ながら、平蔵(へいぞう 33歳)がつぶやいた。

耳にとめた寺社吟味役見習い・小室兵庫(ひょうご 24歳 30俵)は、
「いまは、農閑期ゆえ、多くの水呑みが石切りをしておりますが、寺社奉行の管轄ではなく、郡(こおり)奉行の受けもちです。吟味見習いでしかない手前がご案内いたすわけには参りませぬ」
「あい分かった」


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(左緑○=上から新里(にっさと)と岩原村=宇都宮藩の大谷石切り出し場
赤小○=大谷寺 下緑○=一帯が戸祭村)


つづいて平蔵が、戸祭村の九助(きゅうすけ)の生家を見ておきたいともらすと、それも郡奉行か町奉行の許しが必要と答えられた。

塩谷郡(しおや)郡の乙畑村と越畑村にも行きたい、というと、
「その2村は、藩が異なります。どちらも隣藩の喜蓮川(きつれがわ)藩内です、先方の許しをえないと覗きはできませぬ」
「許可をとるのに、どれほど、かかるのかな」
「一両日でしょう。 江戸の藩邸ならその場で通行切手をもらえます」
なんだか、愚鈍者あつかいにされたみたいであった。

「今夕、小室うじと一献かたむけるのにも、寺社奉行どのへのとどけが要(い)るのかな?」
皮肉のつもりであったが、
「いえ。喜んでお受けいたします」
答えられ、決めざるをえなかった。

「夕刻、七ッ半(午後5時)に、下本陣へ参られよ。その前に、明日、戸祭村と乙畑村へ馬で行ける許しと、郡奉行のところからの案内者を手当てしておいてもらいたい。戸田因幡守 忠寛 ただとを 41歳 宇都宮藩主)侯からは、なんでも注文せよと言われておる」

酒が入ると、小室見習いは多弁になったが、平蔵が藩主に通じていることをしっているので、さすがに藩政批判はしなかった。
郡奉行が隣りの喜連川藩へ速馬をたて、通行手形をもらってきているので、明日は乙畑村へ行けるし、村長(むらおさ)の家へ宿泊も許されたことも、酔う前に告げた。


翌朝、馬できたのは、代官心得・羽太(はぶと)金吾(きんご 22歳)であった。
宇都宮城下から乙畑村は、陸羽街道を6里(24km)ばかり。

馬を並べながら、本丸・書院番士で水馬の名手・羽太清左衛門正忠(まさただ 41歳 700石)の縁者らしいとみて、その話題をしたら、金吾心得は得意げに、三河国額田郡(ぬかたこおり)大門村(現・岡崎市大門)の家柄を誇った。

その自慢話に、適当に合いづちをうっているうちに、鬼怒川の渡しとなった。
金吾が藩の鑑札を示し、特別に舟を仕立てさせた。

つぎの氏家宿では、村年寄の家で早めの昼餉(ひるげ)をとり、東乙畑へ着いたのは八ッ半(午後3時)であった。

村長(むらおさ)の家で、源八(げんぱち 30がらみ)の素性がしれた。
水呑みだが、声がいいので、熊野社の神職もどきをしていたと。
(〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(とよじ 27歳)も、熊野社の下働きといっていた)

「神職もどき---?」
「祝いごとがあるときに、布衣(ほい)を着、祝詞をあげるだけですが---」
「そのような神事をどこで覚えたのであろう---?」
「熊野本社で習ってきたとは、いってはおりましたが、まことかどうか---」

その晩は村長のところに泊まり、翌日は回り道して越畑(こえはた)村の常八(つねはち 26歳)の家へ寄った。
なんと、松造が、常八からの結び文を預かってきていた。
平蔵が柳営につめているすきに、音羽まで行き、会ってきたのであろう。

常八は、〔音羽〕の重右衛門の預かり人となり、彫りや刷り、紙漉きの手順や目の読み方などを覚えるかたわら、学問塾に通っていた。

常八は四男で、40歳近い長男・利平(りへえ)が、
「あれは、才が走りすぎておるので野良仕事には向がねえ。城下町でなら、あの才も役に立づがも」
「いま、江戸で諸事を仕こんでおる」
「よろしゅうにお願いしますだ」

「返事を預かってもいいが---」
松造のすすめに、利平は首をふった。
「みんな、達者にしとると、伝えでもらえばいいだ」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () (

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コメント

乙畑の源八の素性が、地元の熊野神社の神職もどき---というのも、いかにも郷村らしくて、一読、笑ってしまいました。
私が育った日本海側の僻村にも、そのような神事を兼ねつとめていたおじさんがいましたよ。日本の神様の、いかにも庶民的でなんだかはっきりしないところが独特なんですね。

そういえば、下野国とりわけ宇都宮・壬生あたりには熊野神社が多く勧請されていたようですね。

投稿: 文くばりの丈太 | 2010.10.24 05:15

熊野神社は、東海道すじには、それほど多くはありません。
やはり、豊かな土地には似合わないのか、山の神的ないろあいがつよいのか。
山の神といえば、浅間神社の木花咲耶媛(このはなさくやひめ)もおわしますし、白山神社も木曾の御嶽さんもそうですね。
山岳信仰の山村の陣どり合戦はすごかったんでしょうね。

投稿: ちゅうすけ | 2010.10.25 06:47

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