継嗣・家基の急死(3)
暦は2年すすむが、一応、記しておく。
安永10年(1781)の2月23日、3回忌の法会があり、4月2日、天明と改元された。
改元は、2年前の11月、光格天皇の即位によるものであろうが、あたかも、家基の喪あけにあわせたような形になった。
幕府は、天明元年(1781)4月15日、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 63歳 相良藩主 3万7000石)、若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主 2万5000石)、留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳 1100石)に、将軍職を継承する者の人選をするように命じた。
【参照】200713~[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (1) (2)
田沼意次につづいた2人が高齢なのは、長い経世の世間智を買われたともとれるが、田沼のおもいどおりに異をとなえないとみられたともおもえる。
将軍に世継ぎがいないときは、田安、一橋、清水から選ぶということは、吉宗の構想であった(清水家は家重(いえしげ)の子)。
田安は2代目当主だった治察(はるさと 享年22歳)が子なくして逝き、次弟・定国(さだくに 25歳)は13年前に伊予・松山の(久松)松平家へ養子として出てい、その下の定信は7年前に奥州・白河藩へ養子におさまっており、将軍の養い子となる男子は残っていなかった。
【参照】2010年3月21日~[平蔵宣以の初出仕] (2) (3)
2010年3月29日[松平賢(よし)丸定信]
自分の養子縁組を進めたのが田沼意次であると類推した定信は、恨みをもちつづ:け、この時から7年後に、田沼を失脚に追いこんだともいわれているが、政敵とは、そのようなものであろう。
結局、家治(いえはる)の養子は、一橋治済(はるさだ 31歳)の長男・豊千代(のちの家斉 いえなり 10歳)となった。
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コメント
松平定信と田沼意次の確執は、かなり古くからのものですね。
しかし、元をたどれば、田沼も紀州勢、定信も田安家の出ですから紀州系、策謀したといわれている一ッ橋家も紀州系ということになります。
同族ほど憎しみも深いのかも。
池波先生は、『鬼平』をはじめてから5年後に『剣客商売』の連載をはじめ、こちらでは田沼色を強めています。
ちゅうすけさんがいつも書いていらっしゃるように、5年のうちに、池波先生の変化はなんによるのでしょう?
投稿: 左兵衛佐 | 2010.12.03 09:44
>左兵衛佐 さん
この35年来、田沼の評価が変ったのは、ハーヴァードの教授が「江戸期、最高の政治家」と評価して以来とかいわれています。
ぼくが評価をあらためたのは、大石慎三郎先生の『田沼意次の時代』(岩波書店 のち岩波現代文庫)に啓発されました。
池波さんも大石先生の著書が契機だったかもしれませんが、蔵書が未公開のため、推測ができないのです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.03 17:29