先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(2)
堺奉行としての贄(にえ) 安芸守正寿(まさとし 300石)の事績にまで筆(打鍵)が及んだついでなので、記してしまおう。
正寿には称呼国名が、壱岐守、越前守、安芸守と、3つある。
壱岐守を受爵したのが、宝暦6年(1756)12月18日、16歳、西丸の小姓組のときだから、任えていた竹千代(たけちよ 20歳 のちの将軍・家治(いえはる))の推挙であったろう。
しかし、越前守、安芸守の叙爵の時期は、『寛政譜』には明かされていない。
『徳川実紀』は、宝暦元年(1751)3月19日の項に、
百人組の頭・秋山十右衛門正苗(まさみつ 4,700石)の子・豊三郎正員(まさかず 10歳)、寄合・贄 左膳正周(まさちか 300石)の子・市之丞正寿(まさとし 11歳) 大納言(竹千代 15歳)殿の小納戸・建部(たけべ)兵庫広高(ひろたか 300石)の子・金之丞広通(ひろみち 10歳) 大納言殿の伽衆となる。
【ちゅうすけ注】3人の伽衆の年齢は、ちゅうすけが試算していれた。
伽衆の選抜基準は、家柄もあろうが、その嫡子たちの聡明さ、忠節心、性格、機転、話題などであろう。
【ちゅうすけ注】秋山十右衛門は、姓から察しがつくとおり、武田方からの家系で、『剣客商売』の秋山小兵衛は、そのながれを汲む郷士の家の出である。
『実紀』についていうと、例年12月18日前後に階位の上がった者、初めてなんとかの守の爵位を受けた者、および布衣(ほい)を許された者の名簿を掲げている。
それによると、伽衆の少年3人のうち、市之丞正寿(18歳 西丸・小姓組)だけが宝暦6年(1756)12月18日に壱岐守に叙され、豊三郎正員(17歳 西丸・小姓組)と金之丞広通(17歳 西丸・小姓組)は2年遅れた宝暦8年(1758)12年18日にそれぞれ伊豆守、駿河守を受勲している。
この叙勲歴から、竹千代の寵が大きかったのは市之丞正寿であったという推測もできなくはないし、顔相もすぐれていたかもしれないが、称呼は国名の大きいほうが重きをなすという通説からすると、壱岐国よりも伊豆国、さらに大きいのは駿河国である。
秋山豊三郎は家禄が4,700石と、贄 市之丞よりもはるかに高いが、29歳で歿した。
建部駿河守広通も徒頭(かちのかしら)まですすみながら、35歳で病死している。
壱岐守正寿が、旧友2人の分もあわせて忠勤をこころがけたことはまちがいない。
さて、越前守、安芸守の称呼はいつからか、だが、いまのところ、未詳としかいえない。
『寛政譜』にその記載がないことはすでに明かした。
『実紀』も、先手・弓の頭に抜擢された安永7年(1778)2月28日の項にも、火盗改メを命じられた同8年(1979)1月18日の項にも補記はない。
『柳営補任』は、先手弓の2番手の頭への就任を記したときに、越前守としているから、それ以前のいつかに叙されたのであろう。
『実紀』は、天明4年堺奉行の項にも補記していないが、『柳営補任』は越前守を踏襲し、但し書きで安芸守を附しているから、在任中の叙爵であったと推論できる。
とわかっても、あしかけ10年間の『実紀』を仔細に検分している時間は、いまはない。
『実紀』の「索引」ページに記載がないことは、いうまでもない。
【ちゅうすけ注】ふつうは、遠国奉行に任じられると、それまで受爵していなかった者は、発令後1ヶ月前後にたいてい授けられる。
だから、贄(にえ) 越前守正寿もそうかと断じ、堺奉行に発令された天明4年(1784)7月2
6日から年末までの『実記』をあたったが、索引されていなかったとおり、下叙の記述は見つからなかった。
(秋山豊太郎正員の個人譜)
(贄 市之丞正寿の個人譜)
(建部金之丞の個人譜)
【参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
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コメント
竹千代とともに学び、ともに弓を射ている贄市之丞正寿という13歳の少年がなんとなく見えてきました。
利発だけれど口数は多くない、考えてからほんのすこし言う、それでいて、10歳らしい子供っぽさをのこしている金之丞と豊三郎をまとめていく人徳をそなえた少年だったでしょう。
これからの成長がたのしみです。
投稿: 文くばりの丈太 | 2010.12.05 05:22
>文くばりま丈太 さん
お伽衆と---呼び名はいかにも遊び友達風ですが、家康の幼名を継いだ世子・竹千代の伽衆ですから、次代の将軍の忠勤の士---逆耳の士に育て、というのが、祖父・吉宗のこころであったでしょう。
市之丞がそのように育ったかどうか、これからの結果です。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.06 05:51