豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ
『徳川実紀』は、天明元年(1781)5月12日につづいて、
【参照】201129[田沼意次の世子選び] (2)
同年5月24日に、盟友の一人である西丸・書院番3の組の長野佐左衛門高祖(たかのり 36歳 600俵)の番頭の移動が発令になった。
新任の番頭は、渋谷采女正良紀(よしのり 58歳 3000石)であった。
さらに『実紀』の5月26日の項は、
小姓組番頭---大嶋肥前守義里。酒井紀伊守忠聴。島津山城守久般。花房因幡守地正域
旗奉行---小野日向守一吉
鑓奉行---柳生播磨守久寿
持弓頭---根来喜内正武
持筒頭---加藤登之助泰朝
先手頭---筧新太郎正知。篠山吉之助光官。山中平吉鍾俊。宇都野金右衛門正良。柘植五郎右衛門守清。大井大和守持長
小姓組与頭--能勢半左衛門頼喬。清水権之助義永。青木小左衛門政満。小椋忠右衛門正員
徒頭---筒井内蔵忠昌。山口勘兵衛直良。萩原求五郎秀興。万年市左衛門頼意。桑山内匠政要
小十人頭---奥村忠太郎正明。大岡山城守忠主。土岐半之丞朝恒
をはじめ、、それより下の有司多く、西城に勤仕すべきよし命ぜらる。
表右筆組頭・長坂忠七郎高美、西の奥右筆組頭となる。
2日後の28日の『実紀』は、
本丸の小姓組番士の一色靭負政方(まさかた 27歳 900石)ほか4人、本丸の小納戸組から平岡美濃守頼長(よりなが 43歳 2000石)ほか11名が西丸小姓組へ移籍。
さらに本丸の小納戸から森川甲斐守俊顕(としあき 57歳 600石)ほか33名が西丸・小納戸組への復帰が記録されいる。
(この記述は、『実紀』にはめずらしく ひら番士の氏名を明記しているので、いずれ時期をみて、この移籍はその後の栄進に功があったかどうかを検証したい。次期将軍・家斉の目は、平蔵にもおよんだはずだからである)
9歳の豊千代のために、大げさなと平蔵がおもうのはまちがっている。
西丸のこれからの主としての儀礼がはじまるのだから、それなりの陣容が必要であった。
もっとも、西丸・書院番4の組の異動はなかった。
番頭は水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 59歳 3500石)、与(くみ 組)頭も引きつづいて牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 60歳 800俵)のままであった。
あいさつ廻りにいそがしい新任者を平蔵は横目に見ていたが、盟友・長野佐左(さざ)と黒書院の廊下で顔があい、
「久しぶりに、(浅野)大学(長貞 ながさだ 35歳 500石)も呼んで一献やらないか?」
とっさに平蔵は、
「佐左の組の与頭・内藤左七尚庸(なおつね 71歳 465石)どのもお気に入りの、深川・冬木寺裏の茶寮でどうだ? 大学とは、いちど使ったことがあるが---」
佐左に異議はなかった。
4日後、鍛冶橋でもやっている黒舟で待ちあわせた。
五月雨(さみだれ)の季節ということもあり、権七(ごんしち 49歳)が屋根舟を手配してくれていた。
ちょっと遅れてきた佐左がうなった。
「豪勢だな。吉原へでもくりこむ気分だ」
「悪いが、芸者を呼べる店ではないのだ」
「深川というから、いくらかは期待していたのだが---」
「〔蓮の葉〕にしたほうがよかったかな?」
「それをいうな---」
【参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
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コメント
当事者のほかにはあまり関心をもたれない人事記事も、こうして整理し、関連づけて紹介していただくと、史実にも興味がわいてきます。
年齢、俸禄石高、諱の読みの調べなど、ちゅうすけさんのご苦労にはいくら感謝しても足りませんが、これからもよろしくお願いします。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.02.15 06:32