ちゅうすけのひとり言(75)
15歳の辰蔵(たつぞう)が、24歳の月輪尼(がちりんに 24歳)にややを産ます?
もちろん、常識はずれである。
しかし、浅間山が大噴火した天明3年(1783)、大飢饉であった天明4(1784)という年に、史実の長谷川家の年齢をあてはめてみると、平蔵39歳、久栄32歳、妙59歳、 辰蔵15歳、銕五郎3歳になってしまう。
『寛政重修l諸家譜』の[●宣義(のぶのり)]の弟妹の項を見ると、嫁いだ妹2人(於初(はつ)と於清)(きよ)の下に銕五郎正以(まさため)が記され、さらにその下にもう一人、女子が記されている。
銕五郎正以が長谷川支家で大身の栄三郎正満(まさみつ)の養子にはいったことはこれまでもしばしば触れた。
それが、平蔵が逝去する寛政7年(1795)、15歳の時であったらしいことも試算しておいたような気がする。
【参照】2011年3月26日[長谷川銕五郎の誕生] (3)
2006年5月22日[平蔵の次男・正以の養子先]
2006年3月26日[長谷川正以の養父]
『寛政譜』の家譜の提出の期限は寛政10年(1987)であった。
その時点で、次男・銕五郎正以の妹は嫁していない。
正以よりも3歳下と考えると、天明4年の誕生となり、寛政10年には15歳である。
池波さんに代わって、仮りに名前を於津紀(つき)とつけておこう。
すでに記したように、於津紀が誕生した時、久栄は32歳。
将軍の側女たちが30歳すぎると「お褥(しとね)すべり」を実際にしたかどうかはともかく、「恥かきっ子」という俚諺はあった。
30歳すぎて懐妊した妻女への蔑称である。
「まだ、そんなに激しくせがんでいるのか」
男の側の悲鳴であったかもしれない。
で、ちゅうすけは想像した。
[●宣以(のぶため)]の項の末妹で、大久保平左衛門忠居(ただおき 750石)に嫁したのが、『鬼平犯科帳』には登場しないでいる。
当初、これを、於嘉根とふみ、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時)と阿記(あき 21歳=当時)のあいだの子---お嘉根(おかね)と想定しかけたが、妙の気質、阿記の性格から、踏みきれなかった。
で、アイデアを、年齢差か9歳の辰蔵と月輪尼にふった。
年齢差が大きいカップルのほうが、落差がくっきりあらわれよう。
夏だというのに、腹に小ぶんとを巻いて懐妊をよそおい、辰蔵と月輪尼の窮地を救った久栄はえらかった。
(長谷川一族の系図)
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コメント
なるほど、家譜の読み方は、ちゅうすけさまのように脇から攻めていくのですね。
たしかに、親類一統のつはあいを大切にし、しかも自分のほうに有利に展開させようとするのも親類です。
正以の養子時期と妹の関係---だんだんにつまってきました。
投稿: mine | 2011.09.08 05:21
>はい、おっしゃるとおり、久栄の年齢は実家の大橋家の家譜や姉の婿養子となった3人の男たちの身許などから割り出しました。
次男・正以の生年は、一族の久三郎家の家譜から類推しました。
女性の年齢の手がかりさがしは、多いときは5,6家をつきあわすため、3,4日では終らないときもままありますが、鬼平ファンとして、その3,4日間がすごく昂揚します。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.09 06:59