〔物井(ものい)〕のお紺
「忠さん。お紺さんのお目付(めつけ)は、どうなっているのですか?」
ささやくように、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が、〔盗人酒場〕のあるじ・忠助(ちゅうすけ 45歳前後)に訊いた。
〔忠さん〕という呼びかけは、〔鶴(たずがね)〕の忠助のほうから、そうしてくれと言いだしたのである。
「長谷川さま。お付きあいがはじまって、もう1年とちょっとになります。忠助どのの、ご亭主どのと言われるたびに、首をすくめておりました。こんごは、忠さんにしてください」
「拙のほうも、長谷川先生はくすぐったいから、銕っつぁんにしていただけますか」
「ようございます」
そういう経緯(ゆくたて)があっての、「忠さん」である。
お紺(こん 28歳)は、去年、〔盗人酒場〕で突然死した〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 享年=35歳)の女房である。
亡夫の納骨に足利在へ行ったきり、1年も戻ってこなかった。
ひょっこり帰ってくると、銕三郎の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳=当時)とねんごろになってしまった。
(国芳『葉奈伊嘉多』口絵 部分 お紺のイメージ)
足利に滞在していた1年間、おんな好きの大盗・〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の情婦になっていたらしい。
酒と甘いものに目がなかった亡夫・万蔵からは得られなかった性戯をすっかり仕込まれ、おんなとして完熟させられたのである。
男なしではすまされない躰に、仕上げられていた。
直右衛門がいない江戸での、間にあわせの相手に、かつて知り合った、初心(うぶ)な左馬之助が選ばれている体(てい)であった。
直右衛門から伝授された秘技を、左馬之助に教えこむ悦(よろこ)びもあった。
性戯にかぎらない、人は教えるときに、軽い優越感をおぼえるものらしい。
直右衛門がお紺の浮気を知ったら、ただではすますまい。
お紺の躰に未練があれば、左馬之助のほうへ危害をくわえよう。
左馬の若さと活力への嫉妬もはたらく。
【参照】2008年7月19日~[明和4年(1767)の銕三郎] (3) (6)
剣友の危険を見かねた銕三郎が、忠助に話して、お紺を隠してもらった。
ところが、きょう、左馬之助が高杉道場を休んでいた。
気遣った銕三郎が、左馬が寄宿している押上村の春慶寺の離れを訪ねた。
(高杉道場 春慶寺 尾張屋板[北本所]札分)
いつもの調子で、
「左馬さん、おれだ」
と戸障子をあけると---
---あられもない光景。
(国芳『江戸紫吉原源氏』口絵 部分 イメージ)
さすがの銕三郎も、われにもなく動悸が高まり、さっと戸障子をしめて、忠助の店へやってきたという次第である。
「たしかに、お紺さんだったのですか?」
「間違いない」
忠助は、おまさが使いからまだ帰っていないことを見とどけてから、
「じつは---」
お紺は、1年前のお紺ではなく、〔法楽寺〕一味の〔物井(ものい)〕のお紺となってしまっているのだと。
隠れ家は、千駄ヶ谷の名刹・仙寿院の総門前で、〔名草(なぐさ)〕の嘉平(かへい 50がらみ)爺(と)っつぁんがやっている風雅な茶店〔蓑安(みのやす)である。
そこで、店を手伝いながら、〔法楽寺〕からの指令を待っている。
〔法楽寺〕に、たっぷり仕込まれたお紺は、引き込みに使われるはずである。
が、春慶寺がそうとは思えない。
春慶寺の親寺で、6丁(650m)ほど東の柳嶋橋のたもと、妙見堂と星下(ほしくだ)り松で名高い法性寺がねらいではなかろうか。
【ちゅうすけ注】日蓮宗・春慶寺の親寺・法性寺(現・墨田区業平5-7-7)は、『鬼平犯科帳』文庫巻1[唖の十蔵]で、小野十蔵同心たちが〔小川(おがわ)や〕梅吉(うめきち 40がらみ)と〔小房(こぶさ)〕の粂八(くめはち 30男)
「しかしねえ、銕っつぁん。信心深い〔法楽寺〕のお頭(かしら)が、お寺さんをお盗(つと)め先にするような罰(ばち)あたりなことをなさるとは、かんがえられないのですよ。ここはひとつ、わたしにおまかせください。嘉平爺(と)っつぁんに、しかと確かめてみます」
それから数日して、忠助が銕三郎に打ち明けたのは、お紺が、〔名草〕の看視の目をくぐって左馬の部屋へ行ったのは、強くて初心(うぶ)な若い男の躰がほしくなったからだったと。
〔名草〕の嘉平が言ったそうな。
「お頭も、罪なことをなさる。男ひでりが我慢できなくなるまでに仕込まれてしまった女盗(にょとう)には、引き込みの役なんざ、つとまりっこありませんや。潜入先の男とできて、情を移してしまいかねません」
(北斎『喜能会之故真通』 小だこ「親方がすむとまたおれがこのイボでさねがしらからけつの穴までこすってこすって気をやらせたうえでまた吸いだしたるよう」)
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