〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(8)
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、中畑(なかばたけ)村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)が打ちとけてきたのをみはからって、
「お竜(りゅう 29歳)どのが村をでていったのは、何年ほど前でしたろう?」
「10年より、もちっと前かのう?」
「すると、18歳前後?」
「そんなころだったかなあ」
「村長(むらおさ)師匠の目からご覧になって、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の中で、お竜どのがもっともこころを留めていたのは---?」
「信玄公の書簡だったかのう」
「ほう。書状に---」
「信玄公は、謀略にも長(たけ)ておられ申したでのう」
戦国時代の武将は、忍びの者を放って諸将の動きを探るとともに、書状をあちことに送りまくっていた。
いまでいう、情報の収集と操作、そして合従連衡(がっしょうれんこう)の策である。
集めた情報が決断と行動の要(かなめ)であったともいえる。
情報戦に遅れをとった武将は滅亡した。
お竜は、信玄の力の均衡の保ち方にでも興味を寄せていたのであろうか。
(そうではあるまい。書かれた手紙文の裏を読むことを学んでいたにちがいない)
銕三郎は、寅松(とらまつ 17歳 掏摸(すり))を、右左口(うばぐち)村で待機している大久保作四郎玄刻(はるとき 37歳 200俵)へ、そろそろ、迎えにくるように使いにやった。
「お竜どのの母ごは?」
「そのことよ。お竜とお勝(かつ)が村を出ると、後を追うように消えましてな」
「すると、父(てて)ごの猪兵衛どのは---?」
「酒におぼれて、いまでは廃人同然のありさま---」
庄左衛門は、銕三郎ともっと話したそうであったが、長居をしては、余計なことまで話さなければならなくなると、銕三郎は辞するとにした。
「そうそう、村をでるときに、お竜が餞別にと言って求めたのは『孫子』の[虚実篇]の写本でした」
「かたじけのうございました」
村長の家の冠木門をでると、滝戸川のほとりで本多作四郎を待ちながら、銕三郎は、
(あるときは江戸の旅籠、あるときは高崎の商人宿、またあるときは下の諏訪の安旅籠---からお竜が便りを寄越した)
と言った、庄左衛門の言葉を反芻していた。
(もしやすると、それらは、〔蓑火(みのひ)〕一味にかかわりがあるのではなかろうか)
(高崎、下の諏訪)---と、2,3度くり返して、
(あっ。中山道!)
と、思わず、呟いた。
(中山道 下の諏訪-高崎 『五街道細見』の付録地図より)
近江商人は、天竜川や大井川が雨で増水して足止めをくらって日程が狂ったり旅籠賃がかさむことを嫌い、峠の多いことは苦にせず、江戸への往還には、もっぱら、中山道を歩くと聞いている。
そうやって節約した金がたまると、江戸の手前、蕨宿とか大宮宿あたりで質屋をひらき、さらには酒蔵の株を買い、しかるのちに江戸の店株を買う。
だから、中山道に、宿泊賃の安い商人旅籠を設けておけば、近江商人が好んで宿泊し、江戸の商家や、諏訪、高崎・熊谷あたりの冨家の内所のありようが、自然と耳にはいる。
銕三郎は、急いで江戸へ帰りたくなった。
雑司ヶ谷の〔橘屋〕お仲の肌も恋しくなっていることも、もちろんである。。
(栄泉『古能手佳史は話』部分 お仲のイメージ)
【ちゅうすけのつぶやき】池波さんも〔蓑火(みのひ)〕の喜之助が情報収集の手だてのひとつとして旅籠を経営していたことはお見通しで、『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]で、中山道・蕨宿に小さな宿 p162 新装版p171 を亡くなったお幸のむすめ・おもん夫婦にゆずったり、京の五条橋・東詰の〔藤や〕を幹部配下だった源吉に渡している。p158 新装版p167
ちゅうすけ とすれば、一味の解散時に、高崎か下の諏訪、あるいは妻篭(つまご)あたりの旅籠をゆずられたお竜は、いい女将ぶりだったのではないかと、ひとり、空想を楽しんでいるのだが。、
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