火盗改メ・長山百助直幡(なおはた)
「銕三郎どの。こちらが、このたび、われの後任として、本役をお勤めなされる、長山どのです。お見知りおきをお願いしておきなされ」
本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、引きあわせた。
紀品は、明和5年(1768)4月28日づけで、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭から、本丸の新番・組頭に栄転したのである。
ただし、この「栄転」という言葉には(?)がつく。
というのは、先手組頭は1500石高の格で、家禄が1500石に満たない、たとえば、銕三郎の父・長谷川平蔵宣雄(のぶお 50歳)のように、家禄が400石のばあいは幕府が1100石を足(たし)高をして、格式をはれるようにしてくれる。
もっとも、平蔵宣雄は、小十人の頭(1000石高)からの栄転であったから、実際に足(た)されたのは500石であった。
本多紀品は、家禄が2000石だから、1500石高の先手の組頭の場合は、足高はない。
こういうのを持高勤(もちだかづとめ)という。
裏ではともかく、表で言った不平が目付衆の耳にでもはいって上へ伝わると、つぎの出世がなくなる。
新番頭は2000石高なので、紀品は、ここでも持高勤であった。
新番は、本丸に6組、西丸に3組あり、紀品が拝命したの、本丸の6番手の組頭であった。
まあ、こまかいことをいうと、新番の組ごとの組衆は20人だから、先手16番手のときの与力10騎・同心50人より、配下が少ないだけ、下へ遣う物入りが少なくてすむということはある。
(先手の同心はほかどの組とも30人が定員だが、紀品が組頭であった鉄砲の16番手だけが、なぜか、20人も多く配属されていた)。
もう一ついうと、紀品の養父・内匠利英(としふさ 没年37)も、その養父・采女紀当(のりまさ 没年37)も、平(ひら)の書院番士のままで終わっているから、組頭にしろ番頭にしろ、持高勤めとはいえ、役付までいったのは紀品が能才だったともいえる。
【参照】2008年2月9日~[本多釆女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
あとで、紀品が銕三郎にこっそり洩らした愚痴は、
「火盗改メの長官(かしら)として渡されていた40人扶持(年におよそ18石強)がなくなると、ちと、つらい」
であった。
これは現物支給だから、1石2両2分とみて、年50両近い役職手当であった。もちろん、その半分は、小者や牢番の食費・手当てについえはしたが---。
舞台を表六番町の本多邸へもどす。
(表六番町ぞいの本多邸)
長山百助直幡(なおはた 57歳 1350石)は、3年前に書院番の2番組の与頭(くみがしら 組頭とも書く 1000石高・布衣(ほい))から先手・鉄砲の4番手の組頭へ栄進した。
そして、去年の10月に火盗改メ・相役(あいやく)に補された。
【参照】2008年9月6日[火盗改メ索引] (1)
[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (3) (5)
(長山百助直幡の個人譜)
冬場の助役(すけやく)には、荒井十大夫高国(たかくに 59歳 250俵)がいたから、この時期、火盗改メは3人いたことになる。
異例ではある。
【参照】2007年12月14日[宣雄、小十人頭の同僚] (5)
2008年9月4日[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (7)
長山直幡は、組の筆頭与力・佐々木与右衛門(50歳)を伴っていた。
本多紀品は、その佐々木与力へ顔を向けて、、
「佐々木筆頭どの。こちらの銕三郎どのは、異能といっては失礼だが、犬も顔負けというほどに鼻のきくご仁でしてな」
「どのような臭いを---?」
「賊の臭いです」
「ほう」
長山が怪訝な、といった視線を、銕三郎へ投げかけた。
「いや。わが組は、銕三郎どのの鼻のおかげで、幾人もの賊を召し捉え.ることができたのです。4番手の長山組も、銕三郎どのとつながりをお持ちになっておおきになれば、成果がえられましょうぞ」
「これは、いいことをうかがいました。実を申しますと、本多番頭さまもご存じのように、わが組は、50年も前に火盗改メを辞して以来、この職務についておりませぬゆえ、追捕の経験をもったものが一人ものこっておりませぬ。長谷川どののお力を借りること、本多番頭さまより、ぜひ、お口ぞえを願いたく---」
佐々木与力は、こだわりなく、頭をさげたが、長山組頭は、あまり、おもしろくなさそうな表情であった。
それと察した本多紀品は、
「佐々木筆頭どの。そのことは、のちほど、わが組の小村筆頭とお打ち合わせなされ」
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