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2008.12.16

「久栄の躰にお徴(しるし)を---」

銕三郎さま。さきほどのご老職(老中)・阿部伊予さまのご返礼の声色、いま一度、おきかせくださいますか」
沈黙の歩みにたえかねたように、久栄(ひさえ 16歳)が頼んだ。
阿部伊予守忠右(ただすけ 46歳 備後・福山藩主 10万石)が月番老中だったのである。

ちょうど、柳の巨樹のある林町2丁目角であったので、銕三郎(てつさぶろう 23歳)は足をとめ、葉のない枝垂(しだ)れの下へ寄り、
「うん。こうかな。『いずれも、念を入れて勤めい』---」
まず、将軍・家治(いえはる)の声色をやると、引き取った久栄が、阿部伊予の口調で
「忝(かたじけの)う、受けたまわりました。念を入れてあい勤めます---」
と、銕三郎の襟元に手をかけて引きよせ、目をつむって唇をだし、
「あい勤めますゆえ、ご褒美を---」
つぶやき、銕三郎の口づけを待つ。

鬼平ファンは、久栄は、隣家の近藤勘四郎に、17歳の処女のあかしをうばいとられたのではないのか---と不審がられよう。
鬼平犯科帳』文庫巻3[むかしの男]p257 新装版p269 ではそういうことになっている。

しかし、史実は違う。
いや、久栄銕三郎との結婚前に処女でなかったなどという史料があるはずはない。
そうではなく、長谷川家は入江町ではなく、竪川をはさんだ反対側---南本所の三ッ目の通りに面して屋敷があった。いまの地番でいうと、墨田区菊川3丁目15~16 都営地下鉄・新宿線の菊川駅の真上である。

また、久栄大橋家は、和泉橋通りだから、いまのJR秋葉原駅東の、首都高速1号上野線ぞいである。
隣家などではない。
そして、近藤勘四郎は架空の人物だが、入江町の鐘楼の前にぽつんと住んでいたのであろう。

参照】2008年9月25日~[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (6) (7) (8)

ちゅうすけ注】プライバシーに触れるからためらわれるのだが、池波さんはなにかのエッセイで、結婚の相手に処女性を求める愚を書いている。突然なので、探索する時間はないのだが。

そういうわけで、このとき、久栄は処女であった。
口づけも、おそらく、初めての経験といえよう。

その証拠に、銕三郎が長い口づけを解いたとき、腰が抜けたようにぐったりともたれかかってきた。
生まれて初めての性的な感覚が、腰のあたりから太股にかけて、極度に高まった結果であろう。
「歩けるかな?」
訊くと、頭をふった。

しばらく、かかえていたが、
「そこまでだから---」
と、脇をささえながら、ニッ目ノ橋をわたり、〔五鉄〕に連れていった。
板場から気がついて三次郎(さんじろう 19歳)がすっとんで出てきた。
「どうしましたか?」
「急にめまいがおきたらしい」
「2階の奥の部屋が空いてます」

板場をぬけ、裏の階段から2階の小部屋へ上がっていった。

ちゅうきゅう注】『鬼平犯科帳』でしばらくおまさが寄宿し、その後は彦十(ひこじゅう、そして〔高萩たかはぎ)〕の捨五郎(すてごろう)も住んだ、東側が雪見障子になっている部屋である。

三次郎が手早く布団を敷き、横たえた。
久栄は、うわごとのように、
銕三郎さま、さま---」
(これで、処女の徴(あかし)をいただく段になるともどうなってしまうのだろう?)

三次郎が板場へ降りたので、
久栄どの。帯の結び目が苦しくはありませぬか」
「はい。解きましょうか?」

「楽になるなら」
銕三郎も手を貸した。

(ここでではない。ここではいけない。もっと、清らかなところで---)
銕三郎の妄想は、あちこちに飛んでいる。

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(湖竜斉『色道取組 銕三郎が描いているイメージ)

銕三郎さま。旅にでませぬか?」
目をぱっちりとひらいた久栄がつぶやいた。
「え?」
「婚前の旅。すてきでしょうね---」
「うむ」
「温泉などがあるところがいいですね。ごいっしょにお湯につかり、お湯をかけあったりして---」
(なんと無邪気な。男兄弟なしで育ったせいかな---。処女の徴(しるし)を与えるということを、どう、かんがえているのだろう?)


ちゅうすけのムダ話】
昨夜、20年來つづいている[初午会]の夕食会での、虎の門のJTビルの黄鶴楼からの帰り、銀座線・虎の門で足がすべってよろめいたら、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた初老の紳士が、なんと、京極さん。
ほら、『鬼平犯科帳』で、鬼平の理解者だった若年寄、丹後国峰山藩主だった京極高久のご子孫。
とはいえ、この方は、但馬の元・豊岡藩主の第4子で、峰山藩へ養子に入っているから、まあ、高久とは直接のつながりはないんだけど。
「奇縁ですなあ。もう、一パイ、どうですか」
ということになり、京極氏の行きつけの、ギンザの〔ルバン〕へしけこんだ。
〔ルパン〕は、太宰治や織田作之助、坂口安吾が常連だった店、かつての太宰ファンとしては、うれしいかぎり。
ついでだが、マスターの開さんも、、『鬼平犯科帳』も『剣客商売』も文庫でぜんぶ所有と。またうれしくなって、出たばかりの新書『クルマの広告』(ロング新書 950円)を進呈。
なぜ、著編著をもっていたかというと、[初午会]のメンバーに配るために持参していたのだ。
ところが、物故者がせふえて、いま残っているのは12名---うち、出席者は、鎌倉節(前宮内庁長官)氏、日下公人(評論家)氏、金子仁洋(元警察大学校長)氏、唐沢俊二郎(元衆議員議員)氏、谷川和雄(元衆議員議員)氏。
欠席は、竹村健一氏、三宅久之氏、佐々淳行氏、渡部昇一氏ら。

京極氏と、なぜ? じつは、朝日カルチャーセンター[鬼平教室]の講師をしていたときに聴講に見えていたの。


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