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2009.01.10

銕三郎、三たびの駿府(3)

「お芙沙どの。人の目については、〔樋口屋〕の人気(じんき)にさわりましょう」
銕三郎(てつさぶろう)が、でっぷりと肉のついたお芙沙(ふさ 35歳)の肩を押して、躰を離す。
多恵(たえ 7歳)どののお顔を見るのではなかったのですか?」
「今夜は、乳母の家へ泊りに行かせてあります」

_360
(赤○=-本陣〔樋口〕、青〇=第2本陣〔世古〕 前は東海道
三島市観光協会のバフンレットより)

2人は、暗い道を、さらに北へたどった。
「世古本陣方の女中を辞め、加茂社の近くに住んでいたおんなおとこ---賀茂(かも 32歳)とかいいましたか、あれたちが消えた経緯(いきさつ)をお話しくださいませんか」
銕三(てっさ)さま。道行きをしながらでは話しずらいのです。この先に落ち着いて休める家があります。そこでなら---」

茶房ふうのその亭は、男女に逢引きの場を供するのを商いとしているようであった。
品のいい老女がこちらに視線を止めないで案内した離れの、部屋の屏風の向こうには、すでに床がのべられてい.る。
「おささ(酒)と、なにか箸休めを---」
うなずいた老女が去っても、お芙沙は頭巾をとらなかった。

「このようなところを、よくご存じですね」
「本陣とはいえ、宿屋です。いろんなお客さまの要求をかなえるのが、わたしの才覚でございます。でも、来たのは初めて---」

「三島大社の裏の家はどうなりました?」
と訊こうとしてあやうく、銕三郎は言葉をのんだ。
それを口にした瞬間、10年前の2人に戻ってしまう。
(お芙沙は、いまは人妻で、母でもあるのだ)

【参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)] () (

賀茂さんたちのことですが---」
銕三郎の手をとったまま、ひそめた声で語ったお芙沙によると---。

仙次(せんじ 20歳=当時)たちの張りこみに気づいた〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)と賀茂は、たいしてなかった所帯道具をそのままにして、ふっと姿を消したという。
(やはり、素人の張りこみは無理だ)
銕三郎は、この失敗から学ぶとともに、その後、父・宣雄(のぶお 51歳)が火盗改メの任についたときまでに、どうすれば熟練した張りこみができるかを考察しつづけた。
尾行にしても、久栄(ひさえ 17歳)にやらせて失敗している。これも銕三郎の研究課題であった。

参照】2008年10月8日[〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門] (1)

仙次の報せに、芙沙がかけつけて改めたら、赤子用のものは一つものこっていなかったが、押入れの隅に、でんでん太鼓が忘れられていた。
「産み月まで、まだ、あと、2ヶ月はあったんですよ。よほど、待ちこがれていたんでしょうね、賀茂さん」
「あと、2ヶ月---ということは、6月---の、夏生まれの子」

老女が、襖のむこうから徳利と小皿の乗った盆を押し入れたとき、お芙沙が声をかけた。
「お湯桶はたっていますか?」
襖の向こうから老女が、
「いますぐになさいますか? それとも、後刻?」
「のちほど」
「そのときは、そこにある鈴を振ってお報らせくださいませ」
老女は、下駄の音をわざとたてて去っていった。

頭巾をぬいだお芙沙が酒をすすめ、自分も杯をさしだし、ひといきに呑みほす。
さらに、催促した。
「以前は、呑みませんでしたね」
「主人が、中風で寝こんでから、飲まないでは眠れなくなったのですよ」
「丈夫そうに見たが---」
「なにが丈夫なものですか。気も頭も躰もあのほうも弱くて、強いのはやきもちばかり---」

参照】2008年1月15日[与詩(よし)を迎えに] (26)

なおも手酌で杯を干しつづけるお芙沙に、
「思い出は、そっと、大切に、のこしておきましょう」
「いやです。単彩だけで描き終わったあの夜の危な絵に、今夜はたっぷれりと色を盛るのです。思い出を、さらに、さらに濃くするのです」
「いけませぬ。亭主どののためにも、多恵どのためにも、なりませぬ」

芙沙は、銕三郎の膝に泣き伏す。
その背中を、銕三郎は、幼な子をあやすように、いつまでもさすったいた。 

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(国貞『春情肉婦寿満』部分 芙沙のイメージ)

気持ちも股間も、平静さをたもっていられるのが銕三郎には、われながら不思議におもえた。
(いちだんと、大人になったということかな?)

参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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