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2009.03.06

蝦夷への想い

明和6年(1769) 8月18日の『徳川実紀』には、こう、記録されている。

西城宿老(注:老中)。板倉佐渡守勝清(かつきよ 64歳 上野・安中藩主 2万石)本城の列となる。
所司代・阿部飛騨守正允(まさちか 54歳 武蔵・忍藩主 10万石)西城の宿老となり豊後守とあらたむ。
_100御側用人・田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳 遠江・相良藩主 2万石)、加判の列に準じられ、侍従に任じ、加秩五千石を賜ひ、諸老とともに祗候すべしと命じらる。昵近(じっこん)の職兼る事故(もと)の如し(訳:側(そば)用人の職はそのまま兼ねよ。 肖像画)。

2万石の城持ち大名であった意次は、さらに5000石加増され、老中格で、待遇や権限が老中並みとなっわけで、しかも、側用人も兼任という異例さであった。

慶祝のあれこれが一段落した晩秋の宵、意次は久しぶりに清談を愉しみたいからと、木挽町(こびきちょう)の中屋敷に、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳)・銕三郎(てつさぶろう 24歳)父子と、本多采女紀品(のりただ 56歳 新番頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 38歳 西丸・目付 1100石)のコンビを招いた。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年2月28日[平賀源内と田沼意次]

銕三郎は、意次からの婚儀祝いにとどけられた源内焼の皿の礼を述べたのち、しばらく、本多紀品たちの話を、興味ぶかく聞いていた。

と、意次が、とつぜん、声をかけてきた。
銕三郎。このごろ、変わった捕りものの話はないかの?」
「はっ---変わっていますかどうか---拙が手先のように使っております者が、蝦夷(えぞ)の鹿が現われたと申しております」
「ほう。蝦夷の鹿が、両国広小路の見世物小屋にでも出たかの?」
「いえ。ほんもののエゾジカではございませぬ」

銕三郎は、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が幻視したという雌鹿の話をしたが、本所・深川の悪業ご家人・木村惣市父子のことは伏せた。

参照】2008年3月5日「雌エゾジカ

「その、彦十という者は、蝦夷となにかかかわりでもあるのかの?」
意次が、いたく関心を示したので、宣雄があわてて、たしなめる。
。はしたない小者のことなど、田沼さまのお耳へお入れするでない」
「いや。大いに感じておる。そのような下じもの者までが、蝦夷に気をそそられているというところが、なんとも時代らしい」

意次は、これは内密のことだが---と前置きして、オロシヤという北の大国の軍船が、蝦夷の近海にまで出没しているという書き上げが、松前藩からご用部屋へとどいていることを打ち明けた。
「その彦十とやらの幻視にエゾジカが現われたほど、ことは急なのじゃ。銕三郎彦十が、雌鹿にかぎらず、もし、蝦夷のなにかを幻視したら、かならず、予のところへとどけてくれるように」

銕三郎は、意次の政治家としての勘の鋭さを、さすが、と感じた。
真の政治家とは、庶民の潜在意識の中から未来をすくいとり、政策に反映させる準備を早めにしておくのが才能である。
工藤平助(へいすけ)の『赤蝦夷風説考』が板行されたのは、このときから14年後で、さらに意次が、勘定奉行・松本伊豆守秀持(ひでもち 56歳=天明5年 500石)に命じて、蝦夷地調査隊を派遣させたのは16年後であった。

参考】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)

2007年8月2日[松平武元後の幕閣
 

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