〔からす山〕の松造
「同心の氷見どのは、この5日間は組が非番だから、一向にさしつかえないと---」
伝えているのは、〔からす山〕の寅松改め、松造(まつぞう 20歳)である。
【参照】2008年9月10日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜](4) (5) (6) (7) (8)
もとは掏摸(すり)であったが、銕三郎(てつさぶろう 26歳)の人品をしたって、下僕になりにやってきた。
きょうは、先手・鉄砲(つつ)の10番手の同心・氷見隆之介(りゅうのすけ 31歳)の都合をたしかめに、市ヶ谷本村鍋弦町の組屋敷まで遣いにいってきた。
「それで、〔五鉄〕へお越しくださるのだな?」
「ですから、ご指定のところへ出向くと---」
「告げの言葉遣いがおかしいのだ。〔五鉄〕へ今夕五ッ半(午後5時)には伺うとのお返事でした---と、こう言えば、一度で用がたりる」
「はい。これからは、気をつけます」
「うむ。ご苦労であった。ついては、お前にも〔五鉄〕の軍鶏なべをつつかせてやる」
「ひえっ、軍鶏鍋でやすか。初物だあ」
「これ。やすか、ではあるまい」
「はい。お軍鶏なべでございますか。生まれて初めて口にいたします」
「よくできた」
氷見同心は、この7月末近くまでか火盗改メをしていた石野藤七郎唯義(たたよし 65歳 500俵)の下で、日本橋3丁目・御箔町の白粉問屋〔福田屋〕の盗難事件を担当していた。
その件を引き継いだ中野組から力を貸してほしいと頼まれた銕三郎が、〔福田屋〕へ訊きとりに出張ってみると、なんと、お宮(みや)と名のっているお勝(かつ 30歳)がいたではないか。
お勝は、おんな男の〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 32)の相方である。
銕三郎は、その男役のお竜と、ひょんなことから出事(でごと 性交渉)をいたしてしまい、お竜のはじめての男になった。
【参照】2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛] (2)
2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言葉] (30)
2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (4)
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (3)
2008年11月25日[屋根船]
2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
〔五鉄〕の三次郎(さんじろう)は、いまでは22歳---父親・伝兵衛(でんべえ 46歳)を、板場からも帳場からも追いだしている。
伝兵衛も、なじみ客にはさも不満げこぼしているようだが、すっかり三次郎にまかせきりで、朝顔の鉢に凝っている。
氷見同心は、小肥(こぶとも)りで、小男であった。
三次郎に押されるように階段をあがってきたそのうしろに、松造がしたがっていた。
「三(さん)どの。松には、下の入れこみで適当に食べさせてやってくれ。酒は3合まで。なんなら、彦(十 ひこじゅう 36歳)さんのところへ遣いを走らせて、竹造に軍鶏なべのつつき方を教えるよう言ってはくれまいか」
心得た三次郎が、松造を追うようにして降りていった。
「たいした顔ですな」
これがあいさつとなった。
「いえ、山の手と違い、大川の東側はあけっぴろげがとりえでしてな」
とりあえず、酌をし、
「用件は手早くすませ、あとはゆっくりと呑みましょう」
「いいですな」
「こんな江戸の端っこまでご足労いただいたのは、お城のある大川の西側では、お勤めにまつわることはお定めが多すぎるとおもったからです。お許しください」
「なんの、なんの。酒の味は、大川の東も西も変わりないでしょう」
銕三郎が問うたのは、白粉問屋〔福田屋〕文次郎(ぶんじろう 38歳)方の盗難を調べたときに、覚え書きに書かれていない、氷見同心個人として、感じたなにかがあったら、話してほしいということであった。
氷見同心は、盃の手を口の手前でとめ、しばらく考えてから、
「変といえば、あの店ではそれほど古顔ではないお宮とかいう化粧(けわい)指南と称している年増を、みんなでかばっている感じをうけましたな」(お宮(じつはお勝)のイメージ)
「かばう感じ、といいますと---?」
身元をたしかめたかと訊くと、掛川のなんとかいう料理屋で江戸へきてもらう話をだしたときに、料理屋の主人が町奉行所のなんとかいう与力の請け状があるということだったので信用している、なんなら、火盗改メ方から掛川藩へおたしかめになっみては、とやんわり釘をさされたのだと。
また、事件の翌日に消えた飯炊き婆・お杉(すぎ)の身元についても、お宮が請けたのだから、と不安をもらさなかったことに不審をおぼえたことを覚えていると。
「〔福田屋」の者たちにすれば、お宮の美貌で、客足が1割方あがっていることに満足しきっているようにもおもえました。このままいくと、2割方は増えそうだと洩らした手代もいたほどで---」
「美形の看板年増で、男客が増えるというのはわかりますが、おんなの客足が増えるというのはどうも---」
相づちを打ちながら、
「お宮の外出(そとで)のことで、なにかお訊きになりましたか?」
「外出? 他所泊(よそと)まりのことですか?」
「はい」
「それは訊いておりません。そのことと、賊と、なにかかかわりでも?」
{そうではありませぬ。〔福田屋〕文次郎の申したてでは、お宮はおんな男の相方ということでした。とすれば、おんな男とどこで会っているかと---」
「なるほど。その相方というのは、どんなおんななのでしょうね。顔を拝ましてもらいたいものですな」
下賎(げせん)な話題におちたところで、銕三郎は手を打って新しい酒を注文し、氷見同心へのみやげに肝の甘醤油煮をいいつけた。
この甘醤油煮を、お竜(りょう 32歳)が喜んだことまで、ついでにおもいだしてしまい、苦笑した。
氷見同心を見送りに降りると、入れこみで、彦十と松造が盃の応酬をしていた。
眸(め)で、そのままと合図し、表へ出た。
〔五鉄〕の表に詰まれた薦樽のむこうで、ついと動いた人影を見落としはしなかったが、氷見同心が二ノ橋をわたりきるまで、動かなかった。
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