現代語訳『よしの冊子』(まとめ 2)
隠密として働いたのは、目付(1000石格)の下についている、お目見(みえ)以下の身分の、徒(かち)目付や小人(こびと)目付たちとその配下の者たちだから、どうしても視線が低くなるのは否めない。この点で、長谷川平蔵と同時代の記録という貴重性が、若干、薄れるのも仕方がない。
よしの冊子(寛政元年2月12日より)
一. 去年の暮れ、(松平(久松))左金吾(定寅 さだとら 2000石)が下総常陸あたりの御下知御用を仰せつけられ、与力3人が在方(勘定奉行支配地)へ出張したよし。
左金吾組(先手 鉄砲の8番手)は与力5騎なので、3人も遠国へ出てしまうと、残った2人の与力でどうして仕事をこなせるかと話しているよし。
かつまた、右の仕事は本役へお命じになるのが筋なのに、どうして加役(火盗改メ・助役)の左金吾へ命じられた根拠はなんだろうと噂しているよし。
一. 左金吾はますます評判がよく、よほど気根のよい人で、宵廻りは暮れ時から四ツ(十時)ごろに帰り、夜廻りは八ツ(午前2時)から明け六ツ(6時)時まで廻り、たいてい歩きのよし。
昼は登城の前にも吟味があり、退出後も吟味をし、暮れからは巡回に出るよし。
昼夜ともよくつづくことだと感心されているよし。
一. 松平左金吾どのは(松平)越中守(定信 さだのぶ 老中首座)様よりのご内意で、岡っ引きを使っていないよし。
格別よろしきよし。
岡っ引きを使わなくても盗賊はけっこう知れるもののよし。在方でも村役人にしっかりと掛け合えば、岡っ引きは用なしのよし。
江戸でもこの節、芝あたりなどで「金鍔」とかいう博徒の岡っ引きがわがままな振る舞いをしているよし。
一. 神田の岡っ引きが、盗賊どもを密告して召し捕らせたよし。盗賊の内、敲き放しの者が意趣をふくみ、この岡っ引きを須田町で切り殺して逃げたよし。
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵の前任者)が(火盗改メの)本役についていたとき、組の同心が按摩と口論になり、かつまた同心が麹町で六尺に打たれ、誤証文を差し出した一件、期間も過ぎたので、帯刀は右の誤証文のことを伺ったところ、その義にはおよずと、お下げ札で下がり、帯刀は大悦びのよし。組与力なども悦んでいるよし。
一. 松平左金吾は、先ごろまではいたって評判がよろしかったが、あまりに厳しすぎるのと、むずかしすぎるので、このごろはかえって評判を落としているよし。西下(老中:松平定信)も大分不首尾になったそうだといわれているそうな。
【ちゅうすけ注:】
左金吾が本役・平蔵の冬場の助役として火盗改メに任じられて
から半年も経っていないのに、もうメッキがはげはじめている。
一. 長谷川平蔵)は先ごろまでの評判はさしてよくなかったが、町方で奇妙に受けがよくなり、西下(松平定信)も平蔵ならばと申されるようになったとか。
町々でも平蔵さまさまと嬉しがっているよし。もっとも 平蔵 は気取り、気功者で、よく人の気を呑みこみ、借金が多くなっていることはすこしも気にせず、与力同心へは酒食をふるまって喜ばせ、または夜中に囚人を町人が連れて行ったときには、早速に受け取らせ、すぐに蕎麦などを申しつけてふるまっているとか。
飯を出しても冷飯に茶漬けでは人も嬉しがらないが、さっと蕎麦屋へ人を遣わして蕎麦でも出せば、町人はご馳走になった気になり、恐れ入り、ありがたがっているよし。
どうもこの節は長谷川のほうが評判がよろしく、このあいだも左金吾の与力がどうしたことか十手を盗まれたことがあり、そのことを左金吾へ届けたところ、もってのほかの立腹で、これはお支配方へ申し上げずばなるまいと平蔵へ相談したところ、せせら笑って、そのようなことがどうして申し上げられるものか、思ってもごらんなさい、大切な公儀の道具でさえ、番をしていても盗まれるではないか、人が殺傷されたというのなら大ごとだが、盗まれたぐらいのことは仕方がない。また多勢に無勢なら取られることもあろう、そんなことをどうして届けることができるものか、といったので、お支配方へ届けるのはやめにしたよし。
【ちゅうすけ注:】
公式主義の左金吾、融通無碍(ゆうずうむげ)の平蔵。
一. 先年、平蔵が権門へ取り入りしはじめたのは、
「私儀、布衣(ほい)に仰せつけられなければ、父の廟所へ参詣することは相いならぬとの亡父の遺言がありますので、只今まで亡父の寺へ参詣もできずにおります。なにとぞ布衣に仰せつけられますようお願い申します」
と嘆いたので、それは不便なことだ、と権家にても沙汰なさったよし。権門への嘆きはじめは右の次第であったそうな。とにかく利口の人だと噂されているらしい。
【ちゅうすけ注:】先手組頭には布衣(ほい)の受爵資格があるのを、こ
のリポートの隠密は知らない。それほどレベルが低いことの証
拠。こういうのを馬脚をあらわすという。
2007年6月8日[布衣(ほい)の格式]
一. 長谷川平蔵組の同心:鈴木某は、四谷新宿で顔を売っている遊び人で、先年の加役の時分は新宿で威勢よく、賄賂をおびただしく取り、大いに遊んでいたが、去年、長谷川が本役についてからは、規律がきびしくなり、一銭も賄賂をとることを禁じられたので、鈴木某は近頃は手も足も出ず、これではたまらぬと歎息の様子。このごろは本役加役とも賄賂はすこしもとり兼ねるそうな。
この鈴木同心と、京極備前守の一族・甲斐守高有の屋敷とそこに巣食っていた盗賊(史実)、それに麹町6丁目の呉服太物店〔いわき〕の盗難をアレンジ、『夕刊フジ』の連載コラムに[過去は問わない]と題して寄稿。
「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。
平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。
庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び賃として盗品らしい反物3本を預けたのだという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。
(緑○=京極甲斐守屋敷。赤○=呉服木綿店〔いわき〕)
ことの次第を報告すると、平蔵がいった。
「ようやった、鈴木。ついでだからも一と働きしてくれい。旬日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商〔いわき屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいたいのだ」
(『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)
18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1000余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子の入ったばかりだった。
平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。
備前守高久は小説では平蔵の理解者として描かれているが、史実ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。
さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領…〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。
が、そこが中間部屋とはいえ、大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。
一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。
そのやり方も、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱にできたものを。
それから捕らえても遅くはなかったのではないのか?」
帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染みの店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。
【つぶやき:】
史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心や盗賊など、人物・店名はすべて実名。
よしの冊子(寛政元年2月12日より)
一. 去年の暮れ、(松平(久松))左金吾(定寅 さだとら 2000石)が下総常陸あたりの御下知御用を仰せつけられ、与力3人が在方(勘定奉行支配地)へ出張したよし。
左金吾組(先手 鉄砲の8番手)は与力5騎なので、3人も遠国へ出てしまうと、残った2人の与力でどうして仕事をこなせるかと話しているよし。
かつまた、右の仕事は本役へお命じになるのが筋なのに、どうして加役(火盗改メ・助役)の左金吾へ命じられた根拠はなんだろうと噂しているよし。
一. 左金吾はますます評判がよく、よほど気根のよい人で、宵廻りは暮れ時から四ツ(十時)ごろに帰り、夜廻りは八ツ(午前2時)から明け六ツ(6時)時まで廻り、たいてい歩きのよし。
昼は登城の前にも吟味があり、退出後も吟味をし、暮れからは巡回に出るよし。
昼夜ともよくつづくことだと感心されているよし。
一. 松平左金吾どのは(松平)越中守(定信 さだのぶ 老中首座)様よりのご内意で、岡っ引きを使っていないよし。
格別よろしきよし。
岡っ引きを使わなくても盗賊はけっこう知れるもののよし。在方でも村役人にしっかりと掛け合えば、岡っ引きは用なしのよし。
江戸でもこの節、芝あたりなどで「金鍔」とかいう博徒の岡っ引きがわがままな振る舞いをしているよし。
一. 神田の岡っ引きが、盗賊どもを密告して召し捕らせたよし。盗賊の内、敲き放しの者が意趣をふくみ、この岡っ引きを須田町で切り殺して逃げたよし。
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵の前任者)が(火盗改メの)本役についていたとき、組の同心が按摩と口論になり、かつまた同心が麹町で六尺に打たれ、誤証文を差し出した一件、期間も過ぎたので、帯刀は右の誤証文のことを伺ったところ、その義にはおよずと、お下げ札で下がり、帯刀は大悦びのよし。組与力なども悦んでいるよし。
一. 松平左金吾は、先ごろまではいたって評判がよろしかったが、あまりに厳しすぎるのと、むずかしすぎるので、このごろはかえって評判を落としているよし。西下(老中:松平定信)も大分不首尾になったそうだといわれているそうな。
【ちゅうすけ注:】
左金吾が本役・平蔵の冬場の助役として火盗改メに任じられて
から半年も経っていないのに、もうメッキがはげはじめている。
一. 長谷川(平蔵)は先ごろまでの評判はさしてよくなかったが、町方で奇妙に受けがよくなり、西下(松平定信)も平蔵ならばと申されるようになったとか。
町々でも平蔵さまさまと嬉しがっているよし。もっとも 平蔵 は気取り、気功者で、よく人の気を呑みこみ、借金が多くなっていることはすこしも気にせず、与力同心へは酒食をふるまって喜ばせ、または夜中に囚人を町人が連れて行ったときには、早速に受け取らせ、すぐに蕎麦などを申しつけてふるまっているとか。
飯を出しても冷飯に茶漬けでは人も嬉しがらないが、さっと蕎麦屋へ人を遣わして蕎麦でも出せば、町人はご馳走になった気になり、恐れ入り、ありがたがっているよし。
どうもこの節は長谷川のほうが評判がよろしく、このあいだも左金吾の与力がどうしたことか十手を盗まれたことがあり、そのことを左金吾へ届けたところ、もってのほかの立腹で、これはお支配方へ申し上げずばなるまいと平蔵へ相談したところ、せせら笑って、そのようなことがどうして申し上げられるものか、思ってもごらんなさい、大切な公儀の道具でさえ、番をしていても盗まれるではないか、人が殺傷されたというのなら大ごとだが、盗まれたぐらいのことは仕方がない。また多勢に無勢なら取られることもあろう、そんなことをどうして届けることができるものか、といったので、お支配方へ届けるのはやめにしたよし。
【ちゅうすけ注:】
公式主義の左金吾、融通無碍(ゆうずうむげ)の平蔵。
一. 先年、平蔵が権門へ取り入りしはじめたのは、
「私儀、布衣(ほい)に仰せつけられなければ、父の廟所へ参詣することは相いならぬとの亡父の遺言がありますので、只今まで亡父の寺へ参詣もできずにおります。なにとぞ布衣に仰せつけられますようお願い申します」
と嘆いたので、それは不便なことだ、と権家にても沙汰なさったよし。権門への嘆きはじめは右の次第であったそうな。とにかく利口の人だと噂されているらしい。
【ちゅうすけ注:】先手組頭には布衣(ほい)の受爵資格があるのを、こ
のリポートの隠密は知らない。それほどレベルが低いことの証
拠。こういうのを馬脚をあらわすという。
2007年6月8日[布衣(ほい)の格式]
一. 長谷川平蔵組の同心:鈴木某は、四谷新宿で顔を売っている遊び人で、先年の加役の時分は新宿で威勢よく、賄賂をおびただしく取り、大いに遊んでいたが、去年、長谷川が本役についてからは、規律がきびしくなり、一銭も賄賂をとることを禁じられたので、鈴木某は近頃は手も足も出ず、これではたまらぬと歎息の様子。このごろは本役加役とも賄賂はすこしもとり兼ねるそうな。
この鈴木同心と、京極備前守の一族・甲斐守高有の屋敷とそこに巣食っていた盗賊(史実)、それに麹町6丁目の呉服太物店〔いわき〕の盗難をアレンジ、『夕刊フジ』の連載コラムに[過去は問わない]と題して寄稿。
「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。
平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。
庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び賃として盗品らしい反物3本を預けたのだという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。
(緑○=京極甲斐守屋敷。赤○=呉服木綿店〔いわき〕)
ことの次第を報告すると、平蔵がいった。
「ようやった、鈴木。ついでだからも一と働きしてくれい。旬日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商〔いわき屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいたいのだ」
(『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)
18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1000余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子の入ったばかりだった。
平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。
備前守高久は小説では平蔵の理解者として描かれているが、史実ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。
さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領…〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。
が、そこが中間部屋とはいえ、大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。
一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。
そのやり方も、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱にできたものを。
それから捕らえても遅くはなかったのではないのか?」
帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染みの店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。
【つぶやき:】
史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心や盗賊など、人物・店名はすべて実名。
『よしの冊子(ぞうし)』をまともに説明しておこう。
『よしの冊子』は、一橋治済(はるさだ)や水戸侯などの暗躍で田沼政権が倒れたあと、門閥派プリンスの松平定信が老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長が四方八方へ隠密を放って情報を集めたその記録。
文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの冊子(ぞうし)」と一般に呼ばれている。
もっとも、最初のうち、隠密たちは反田沼派のところへ行って、定信が喜びそうな噂話を集めたフシがある。
記録は門外不出とされていたのに、ひょんなことから洩れたが、幕府や各藩の上層部についての記述は桑名藩(定信の藩は白河からもともとの桑名藩へ復帰)の家老の手で、意識的に抹消された気配がある。
当初は定信と縁つづきの松平左金吾をもちあげ、だが、長谷川平蔵をくそみそに書いていたのが、のちに評価が正当になっていくのがおかしい。
よしの冊子(寛政元年5月12日より)
一. (長谷川)平蔵は加役で功を立て、とにかく町奉行になるつもりのよし。人物はよろしくはないが、才略はある様子。
一. 松平左金吾がこのあいだ四ツ(午前10時)のお召しで登城したところ、加役中、出精し、かつ与力同心も骨折って勤めていることが上聞に達しご満足に思し召しているとの、お言葉のご褒美をくださったよし。
これまでの加役にはなかったこと。これは畢竟、愛宕下のご縁のせいだろう。
左金吾どのはいろいろとむずかしくいい出し、町々ではそこそこ困っていた。
この仁の加役が終わって悦んでいるとは、みんな口ではいわないが。
一. 長谷川平蔵はいたって精勤。
町々は大悦びのよし。
いまでは長谷川が町奉行のようで、町奉行が加役のようになっており、町奉行は大いにへこんでいるとのこと。
なにもかも長谷川に先をとられ、これでは叶わぬといっているよし。
町奉行もいままでと違い、平蔵に対しても出精して勤めねばならぬようになり、諸事心をつけていると申されたよし。
町奉行もとかく平蔵へ問い合わせているていたらくとか。 (出所:町奉行所の与力か同心か) 。
【ちゅうすけ注:】
このときの町奉行は、
北……初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき) 45歳
1200石
武田系名門の依田家から養子。この2年後に、平蔵の銭相場の
片棒をかついだことを苦に病んだか、病死。
南……山村信濃守良旺(たかあきら) 61歳 500石
屋敷:赤坂築地中ノ町(現・港区赤坂6丁目)
在任中に病死した宣雄の後任として京都西町奉行に着任。
残された平蔵の面倒をなにくれとなく見てくれて以来の親平蔵
派。京都町奉行時代、禁裏役人の不正の探索の秘密命令を受け
ていた。
4か月後に大目付へ栄転。後任は池田筑後守長恵(ながし
げ)。平蔵のライヴァルのひとり。
【参考】山村信濃守良旺
『夕刊フジ』の連載コラムに書いた長谷川平蔵の[銭相場の真相]---。
火盗改メの長官・長谷川平蔵は、盗賊・博徒の逮捕に顕著な実績をあげていた。
しかるに役人仲間からよくいわれなかった要因の一つが、銭(ぜに)相場に手をだしたこと。
為政者としての武士にあるまじき行為というわけだ。平蔵には彼なりのいい分があったのだが……。
天明の飢饉で、江戸に無宿人がふえた。無宿人=人別帳にのっていない、いわゆる無籍者だ。
無宿人は、追放刑をくらった者、たたきや入墨刑の仕置をすませた軽犯罪者、離農者や勘当された無実の者…に大別された。
天明期に急増したのは、食えないために田畑を捨てて江戸へ流入した連中だ。
いまのホームレス同様、繁華地の橋のたもとや川岸に仮小屋がけしていた。
彼らを収容する施設の建設と運営というホームレス対策が、松平定信政権の急務の一つとなっていた。
火盗改メの対象は主に無宿人――長官・平蔵は人足寄場の創設と運営の実行責任者たるべく名乗りをあげざるをえなかった。
だが、非人だまりへ送りこむべき連中相手の仕事だから、格式をもった家柄の幕臣としては貧乏クジを引く羽目になったといえる。
にもかかわらず、彼は工夫と勤勉と慈悲心で人足寄場を成功させた。
平蔵の犯罪者観として伝わっているのは、罪を犯した10人のうち5人は更生できる……だった。ましてやまだ犯罪へ走っていない無実の無宿人のこと、手に職をつけさせれば立ちなおる。
定信内閣は、隅田川河口の石川島に築かれた人足寄場の初年度の運営費として米500俵と金500両を与えた。預けた無宿人の食い扶持料としてこれまで非人だまりへ渡していた額より少なかったらしい。
2年目には予算は40パーセント減、300両ぽっちに減らされされた。やっていけない。平蔵は、1両が6200文にまで下落中の銭の相場を操作することにした。
盗賊の侵入を未然に防いでやって親しくなった大商人からの借り知恵だった。
幕府から人足寄場名義で元手の3000両を借りだして銭を買う。
その上で、1町内に1店以上あった両替商たちを北町奉行所へ呼びつけ、町奉行の初鹿野河内守信興同席のもとで「銭の相場を上げるように」と申し渡した。
銭はたちまち5300文へはねあがった。平蔵は、買いおいた3000両分の銭を両替商たにに引きとらせて400両なにがしの利益をえ、全額人足寄場の運営費の不足分にあてた。
まさにこれこそ、才覚というものだ(いまなら、インサイダー取引にあたるかも)。が、世には人まねばかりで才覚なんかだせない輩のほうが圧倒的に多い。彼らの妬みから生じる非難は大波のように才覚のある仁を襲う。
「銭相場へ手を染めるなど、士農工商と最下級の商人の中でも下の下の商人のすること。日ごろ無宿人などに接していると志があれほどまでに落ちるものか」
非難は公式主義に拠っている。
老中首座・松平定信側の隠密が書いた文書は、この銭相場に「山師」なる評言をあて、これが定信の平蔵評となった。予算削減のことは棚上げして、だ。いやはや。唖然だ。
よしの冊子(寛政元年6月3日より)
一. 長谷川平蔵、もっぱら高慢いたし、おれは書物も読めず、何も知らぬ男だが、町奉行と加役のこと、生得承知している、今の町奉行は何の役にも立たぬ、町奉行はああしたものではない。
いかような悪党があっても、町奉行やまたほかの加役を勤めた者は、その悪党を独りのほかはつかまえぬが、おれは根から葉から吟味をしだす。
だからといってぶったり叩いたりして責めはしない。自然と白状させる仕方がある。町奉行のように石を抱かせたり、いろんな拷問にかけて白状させることはせぬ、と自慢しているよし。 (出所:町奉行所の与力か同心か)
【ちゅうすけ注:】
「拷問はしない」というのは平蔵の主義ではあり、尋問も、まるで
相談事をしているようだという記録もあるが、いっぽう、長谷川組
に捕まった蕨市(埼玉県)のある男が拷問されているのを見聞し
たという逸話ものこっている。
一. 松平左金吾がいうに、平蔵はやたらと火付や盗賊を捕らえ、彼らをお仕置するのを大いに自慢しているが、あれは当座の功績というものだ。
火付や盗賊が出ないようにするのが本のことだ。
たとえば巾着を切ったり、小さな盗みをしているあいだに早く捕らえれば、世の中もおだやかだし、盗賊も軽い罪ですむ、これが本当のご政道というものだ。
長谷川(平蔵)のように大泥棒ばかり捕らえるのは、政治の本末を取りちがえている。
大泥棒にならないうちに捕らえるのすがほんとうなのだと、高慢な理屈を吐いているよし。
よしの冊子(寛政元年6月13日より)
一. 博奕ばかりご禁制で、岡場所遊女などをそのままに放置しておいては、博奕の吟味が行きとどくまい。
いずれ、初めは遊び場へ足を入れ、あげく、博奕場へも出入りするようになる。博奕は末、遊所は本なのだから、本からとめるようにしたいものだと噂されているよし。
(老中首座・松平定信の理想主義にかぶれた従兄にあたる松平左金吾あたりの言葉か?)
一. 田舎は博奕は止んだが、江戸では小身のご家人などがいまだにやっているよし。
少禄の家は蔵宿(札差し)にもかなりの借金をしてるいから、お切米(春四分の一、夏四分の一、秋半分)が出ても、金を一分(米一斗分)にも替えることができなくて、ただ割符を持ち帰るだけ、博奕でもしなければ金ぐりがつくまいともっぱらの噂。
一. 小石川に住んでいる座頭の悪党が、先日市ヶ谷で召し捕られたときのこと。長谷川平蔵の役宅へ引だされた座頭が、与力に会いたいという。
で、与力が何気なく側へ寄ったら、しがみつかれ、狂ったように肩やほうぼうへ食いつかれた。同心があわてて十手で座頭を打ちうえて引き離したよし。
仲間もなく、自分だけがお仕置になるのは心のこりで噛みついたという。
この座頭が働いたかずかずの悪事の一、二の例をあげると、離縁したいと思っている人妻を預かってただちに女郎として売り払ってしまうとか、麹町四丁目の無尽茶屋で日がけ無尽があったとき、店の前であばれるので若い者がとりおさえ、日がけ無尽に来たのなら二階へあがれというと、日蔭無尽は法度のはず、とゆすりをかけたりするよし。
座頭は女房連れで浅草馬道の蕎麦屋で蕎麦をとったが、その前に女房のほうが銭箱へそっと代金を入れておく、で、蕎麦やの亭主が蕎麦代を請求したら、銭はすでに払ってある、銭箱にこよりをつけて印をしたのがそうだという。銭箱を改めると、なるほどこよりのついた銭がある、そこで目が見えないのをいいことに、とかなんとか因縁をつけて三分(一両は四分)もゆすりとったとか。女房も悪で、夫婦していろんな悪事をやっていたらしい。
よしの冊子(寛政元年8月24日より)
一. 松平左金吾(定寅 さだとら 久松松平の一族 長谷川平蔵の政敵の一人)が湯治願を、安藤対馬守(信成。若年寄)へ差し出した翌日、早速に認可された。
蓮池御門の当番(先手組の平時の職務の一つ)にあたっていたが、このごろは湯治場が繁盛して湯女なども多く働いており、放蕩者も入りこんでいる模様なので、病気治療ということにして巡察を、上から内々にいいつかったのであろうか。
先手頭の湯治願などは前例がない。だいたい左金吾には痔疾の持病があるが、湯治に行くほどの重症でもないから、きっと何かわけありだろうと。
【ちゅうすけ注:】
先手組の通常の任務は、江戸城内の五つの門の警備である。
蓮池門もその一つ。
一. 四谷あたりに先手同心の屋敷の一部を借りていた紀州家中の安藤長三とやら申す武士は放蕩者で、何日も家を明けて不在のことがしょっちゅうだ。
あるときなど、仲間どもが訪ねても居ないので出奔届をした。
その後、四谷坂町で長谷川平蔵の手の者に召し捕られたとき、紀州家中の者なので仲間か縁者のところへ連れていってほしいと頼んだが、縁者は見つからず、仲間は出奔届を出しており無宿人になってしまっていた。
長三がいうには、出奔届のことはまったく知らなかった。留守しているうちに無宿人になってしまい大難儀していると。
聞いた長谷川は、それは困ったことだ、といったそうな。
【ちゅうすけ注:】
四谷坂町というと『鬼平犯科帳』の愛読者は、長谷川組の組屋
敷---を連想するが、史実は異なる。
たしかに、四谷坂町に、先手組組屋敷はあったことはあった。
が、筒(鉄砲)組の4番手---組頭・市岡丹後守房仲 ふさなか
1,000石 着任・寛政元年 当時49歳)のもの。
(青○=下からの坂を含め一帯が四谷坂町。
緑○=筒の4番手・市岡組組屋敷。近江屋板)
長谷川組(弓の2番手)の組屋敷は、目白台。いまの目白台図
書館の前あたり一帯。
池波さんは、『武鑑』の先手組頭のリストの長谷川平蔵のところ
の、△印の下に目白台とあるのを屋敷と読んだらしい。△印は
組屋敷の符号。
(赤○を中心としたブロック内が弓の2番手=長谷川組組屋敷。
新目白坂をのぼりきった三角地帯りの北側 近江屋板)
ついでなので。目白台には3組の弓組組屋敷があった。
下の最右手(東端ブロック)が長谷川組。
・・・先手組屋敷は切絵図では、ふつう[御先手組]と一括して示
されているのに、どうしたわけか、目白台と四谷の左門町だ
けが戸割リに氏名が書かれている。そのために、そこを見逃
す人が多い。
一. 松平左金吾どの、箱根の湯治から帰られたよし。このたび箱根の山を見られて絵を描かれた様子で、いわれるには、「このごろ、栄川(泉)が名人との評判が高いが、どうしてどうして、俺の絵には及ぶまい。正真正銘の山を見ることができたので山の山たるを知って描いた、おれほどに描ける者はおるまい」と自慢。
和歌のこと、天文のことまでも、それはそれは高慢のよし。
『よしの冊子』(寛政元年9月9日より)
一. 長谷川平蔵(宣以 のぶため 44歳 400石)は町奉行を望んでいたところ、池田(筑後守長恵 ながしげ 45歳 900石)になられてがっかりしているよし。
まあ一般的にいって平蔵の評判はほどよくはない模様。
このあいだも湯島で泥棒を一人召し捕って自身番へ預け、いってきかせたには、明日までに自分の屋敷へ連れてこい。
もし今夜火事でもあって混雑したならば、逃がしてもそのほうどもを咎めはせぬ。
またただちに捕らえると見えをきり、その泥棒に手拭いは持っているかと聞き、供の者へ申しつけて近所で手拭いを一本買ってこさせ、[あした日中、手拭いもかぶずにおれがところへ引かれて来るもせつなかろうからこれをやる」と渡したよし。
長谷川平蔵は仁政を安売りをすると噂されているよし。
【ちゅうすけ注:】
池田筑後守は、京都町奉行から栄転。京都在任中に、たまたま
禁裏の火災があり、その処理のために上京した老中首座・松平
定信への応対も幸いしたらしい。家柄も、因州・池田家の一門。
一門は多いほうで、家ごとにまとめた下のシートは8葉。
長恵の家は末尾に近い。
一. 長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川は父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。
また父親が大坂町奉行(?)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。
【ちゅうすけ注:】
父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)
10月17日53歳のとき。
本役の中野監物清方(きよかた 廩米300俵)が翌年の3月4
日に病死(50歳)したので、後釜として助役の宣雄へただちに
本役を発令。
幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが
焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要
があったからだ。
その放火犯を宣雄の組(先手弓の第8組)がめで
たく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉
行へ栄転した。
『よしの册子』が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。
宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳から
28歳で、立派に助手がつとまった。
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