元締たちの思惑
京・祇園の〔左阿弥(さあみ)〕の2代目元締・角兵衛(かくべえ 40がらみ)のところへ行(や)った万吉(22歳)・啓太(20歳)からの、待ちわびていた速飛脚便がとどいたのは、2日前であった。
すでに19板刷られている[みやこ板・化粧(けわい)読みうり]の板木はすべてのこっているとともに、最新板とその前の板の刷りあがりが20枚ずつ、添えられていた。
板木は、3荷にわけて中山道の便に託したが、20板まで板行したら始めの板に戻すことを、〔紅屋〕〔延吉屋〕とも話しあって決めたので、江戸で使いおわったら、また送りかえしてほしいとも記されていた。
しっかりした筆づかいだから、角兵衛の手によるものと、平蔵(へいぞう 28歳)は判じた。
荷送りを中山道にしたのは、これから冷雨の多い時期に入るから、川止めを避けたのである。、
追って書きに、〔延吉屋〕の化粧指南師のお勝(かつ 32歳)どのが、江戸へ帰りたがっている、とあった。
(江戸へ帰りたがるって、〔狐火(きつねび)のお頭から許しがでるはずはなかろうに---それとも、自活に自信がもてたか)
平蔵は小さく舌うちした。
【参照】2009年8月24日~[化粧指南師お勝] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
とどいた最新板のうち20枚を若党・松造(まつぞう 22歳)にもたせ、芝・北新網町の〔愛宕下(あたごした)〕の元締・伸蔵(しんぞう 43歳)の家へ向かった。
板元を引きうけた駕篭屋の親方〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)と、相談役の両国広小路の〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)とは、伸蔵宅で落ちあう手はずにしてあった。
北新網町へついてみると、予定していなかった新顔を、紋次がともなっていた。
両国橋西詰・広小路から柳原土手、柳橋一帯をしきっている〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 52歳)と、小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)の伝六(でんろく 27歳)と紹介された。
伝六は、.為右衛門元締が若いときから小泉町に囲っていた妾・お京(きょう)に産ませた子だと、あとで聞いた。
お京は、20年近く前に病死したので、元締の家に引きとられて育ったという。
「〔音羽(おとわ)の若元締のすすめで、一口、のせていただくことにいたしやした」
相撲取りのような体格の為右衛門は、殊勝にも、平蔵に頭をさげた。
伝六は、見すえるように平蔵をみつめただけであった。
「小頭。これから談合するのは、まったく新しい生業(なりわい)の手だてでやす。素直にうけとらねえと、ことがもつれやす」
見かねたらしい〔愛宕下〕の伸蔵が、やんわりとたしなめた。
「わかっておりやす。そういう新しいことを考えだしなすったのがお武家さんだということなんで、どんなお人かとおもったら、あっしとどっこいどっこいのお若い方なんで、世の中、変わったと、つい、考えこんでしまって---失礼のほど、ごめんなすって」
「小頭どのは、お幾つにおなりで?」
平蔵がこだわらずに話しかけた。
味方にしなくてもいいから、敵にはまわすな---お竜(りょう 享年33歳)の口ぐせの一つであった。
「27歳のかけだし者でやす」
「小頭どの。これからの世の中は、年齢でわたるのではありませぬ。知恵でわたります。拙はいま、28歳です。この案は、去年、京都にいたとき、〔左阿弥〕の元締といっしょにおもいつきました。小頭も、ことの次第がのみこめたら、もっといい案をつくりだされるあろう」
「知恵でわたる?」
「あとで、顔が揃ったらあらためて話しますが、これは、風評をつくり、つくった風評を金にかえる策なのです。そのもとは、お隣の紋次どのがすでにやっていることを手直ししただけです」
伝六は、意外なものを見るような目つきで、〔耳より〕の紋次をみた。
これまでは、ケチな〔読みうり屋〕としか見ていなかったが、同年輩の平蔵に、風聞を金に変えているいわれ、たしかに、噂話を売って身すぎをしている男にちがいないとおもえてきたらしい。、
見方を変えると、人間の評価まで変わる。
★ ★ ★
週刊『池波正太郎の世界8』[仕掛人・藤沢梅安 二]が贈られてきた。
1週間が「アッ」というまだ。
梅安は、藤枝の旧東海道筋の神明さんの門前の榎の巨樹の下の桶屋の子としての生まれだから〔藤沢姓〕。
(藤枝宿・神明社 幕府道中奉行制作『東海道分間延絵図)
(現在の神明社)
いま行って見ると、榎の巨樹ではなく銀杏の古樹である。
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