鎗奉行・八木丹波守補道(みつみち)
納戸町の長谷川正誠(まさざね 享年69歳 4070石)の後家・於紀乃(きの 76歳)から、15日か16日、どちらか非番の日に、小川町一橋通りの甥の八木丹波(守 補道 みつみち 4000石)が甲府から帰任した祝い話を聞くので、これないかとの誘いがきた。
16日なら都合がつくと返辞をした。
補道は、『徳川実紀』には、盈通(みつみち)と記されているが、ここは『寛政譜』にしたがっておく。
八木丹波は、この4月1日に甲府勤番支配を解かれ、平時のいまは閑職ともいえる鎗奉行に転じて帰ってきていた。
七ッ(午後4時)という指定だったので、一橋北詰の火除け地角の茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 31歳)には、前日の下城どきに、三河町の御宿(みしゃく)稲荷側の留守番の老婆・お安(やす 60過ぎ)に文をとどけておいた。
「16日、六ッ半(午後7時)には先にきて待っている。夕食は、八木方ですます。なるべく早く帰ってこい)
文にはそう記した。
当日は、梅雨の前触れのような小雨が、咲き始めた紫陽花(あざさい)の花弁に露をもたらしていた。
すっかり曲がってしまった腰の紀乃は、ひ孫むすめのような与詩(よし 18歳)に手をとられながら、とぼとぽと歩み、上座を占めた。
【参照】2010年1月5日[妹・与詩(よし)の離婚]
八木家の当主の補道は、亡父・補頼(みつより 享年47歳)の実妹の紀乃をむかしから苦手としていたので、あきらめつつも、半分は珍しい動物でも見るような目つきで、すべてを許していた。
じっさい、嫁(か)してもう60年近くなろうというのに、実家(さと)に来ると紀乃は、きかん気むすめであったときと同じようにふるまった。
嫡男・十三郎補之(みつゆき 38歳 無役)が、父が、内室を江戸においての17年におよぶ甲府在勤中に3人の側室に産ませ3男2女を披露した。
そのあいだに内室が病死したので、補道がつれ帰ってきたのは、山国育ちらしく、25歳にもなっているというのに、頬の赤みが消えないお北であった。
お北は、2男の母でもあった。
すっかり歯の抜けで皺が深まった唇をふるわせた紀乃が、突然、
「そうじゃ。銕三郎(てつさぶろう)が伝太郎(でんたろう 補通の幼名)をわずらわせた、甲斐の軒猿(のきざる)のおなご、のう、その後、どうなったかのう?」
「納戸町の大叔母どのには、亡じたとお話し申したはずですが---」
【参照】2008年9月7日~゜{中畑(なかばたけ)〕のお竜] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2009年8月1日~[お竜の葬儀] (1) (2) (3)
お竜(りょう 享年33歳)の名は、かかわりのない者たちの前では口にしたくもなかった。(歌麿 お竜のイメージ)
平蔵はいまでも、盗人(つとめにん)対するときには、お竜ならどう仕掛けるかと、お竜の頭脳を借りている。
それほど、お竜の才能を買っていた。
だれにも触れてほしくなかった。
紀乃の口をぶんなぐってでも、この話題を打ち切らせたかった。
その様子を察した補道が、割ってはいった。
「納戸町の。あの探索は、ご公儀としても、厳秘の案件となっております。お口になさっては、お手がうしろにまわりましょう」
甲府勤番支配までは、抜群の能吏であった。
そのために、周囲からうとんじられ、甲府へ飛ばされたともいえた。
話題を打ち切られた紀乃は、そのことは忘れたように、
「眠とうなった。ちと、横になるぞえ」
与詩に支えられながら、ごろりところがり、いびきをかきはじめた。
「丹波どの。お気づかい、ありがとうございました。与詩、大叔母をたのんだぞ」
平蔵は、小雨の道を御宿稲荷脇へいそいだ。
八木邸からは南東へ6丁(540m)ほどの距離であった。
(妙な日だ。頭はお竜をしのんでおり、躰は里貴を欲しておる)
(八木家家譜 赤丸=紀乃)
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コメント
「越後軒猿。甲州素っ破。相州乱破」と故戸部新十郎氏は忍びを題材にした作品に書いています。
また、甲州の忍びについて、Wikipediaの記述によれば、「甲陽軍鑑では三ツ者あるいは素っ破」とされています。
いま一度、忍びの呼称について確認されてはいかがでしょうか?
投稿: 令博 | 2010.05.15 18:36