遥かなり、貴志の村(3)
「寺嶋どの。拙は夜食に、〔丹波屋〕のうなぎを摂りますが、ご相伴くださいますか?」
おもいきって、問いかけみた。
真意を量るように、じっと平蔵(へいぞう 31歳)をうかがった寺嶋縫殿助(ぬいのすけ)尚快(なおよし 44歳 30Q俵)が、
「奢るには、なにか魂胆が---?」
「他意など、ござりませぬ。夜長に、お話しくださるなら、紀州の土地がらなどを、少々---と」
「乗り申す」
(右=蒲焼の〔丹波屋〕。10年ほど前まで営業していた)
〔丹波屋〕は、半蔵門から西へ甲州路を4丁ばかりいった、麹町4丁目の表通りで商いをしていた。
半蔵門を通行できる鑑札を下賜されており、西丸の宿直(とのい)の番士で、ちょっと口を甘やかしたくなったら、半蔵門の番屋へ注文書きを預けておくと、店の小者が決まった時刻に集めにき、晩飯どきに焼いたばかりのうなぎ飯を西丸までとどけてくれた。
【参照】2008年10月21日[〔橘屋〕のお雪] (5)
寺嶋縫殿助の祖は、駿河国志太郡(しだこおり)寺嶋村(現・藤枝市寺島)に住していた今川の家臣であったが、その後、徳川に仕え、大納言頼宣に配されて紀州へ移った。
今川方から徳川方へ移ったのと、志太郡に領地をもっていたところまでは、長谷川家と重なる。
寺嶋尚快もこころえてい、平蔵が西丸・書院番4の組に配属になったとき、先輩としてすぐに声をけてくれていた。
寺嶋は、30歳の宝暦13年(1763)から、もう14年間も同じ職場にい、わけ知りとして一目おかれていた。
うなぎを食べ終え、茶を手にした寺嶋が、紀州のなにが望みか、と訊いた。
「食してしまってからあかすのは気がひけるのだが、江戸藩邸詰で有徳院殿(吉宗)さまにおつきして二ノ丸入りした祖父以来、紀州には帰っていないのだよ」
「その、赤坂の藩邸でのご祖父さまは?」
「紀州藩での役職ということかな? 中奥勤めで50石。37万余石の紀州藩士とすれば、まあ中の下というところ。もっとも、祖父はご家人となって300俵を給されたから、6倍にはなったが、長谷川うじだから洩らすのだが、中には10倍はおろか、20倍、いや50倍にとりたてられている仁もいるから、6倍すえ置きを手ばなしで喜んでいてはいけないな」
愚痴話には軽くうなずいておき、
「紀州の貴志という村について、なにか聞き及びではないですか?」
「貴志村?」
また、うなずいた。
「7年前まで生存しておった父・又四郎尚包(なおかね 享年81歳)なら、存じていたやもしれないが---。しかし、そういえば、貴志川というのは、聞いたことがあるような---なんのときであったかな、そうじゃ、貴志池という灌漑池の土手を補築するについて、弥惣兵衛(やそべえ)さまがおかかわりになったときに耳にしたのじゃ」
「弥惣兵衛さま---?」
「紀州が産んだ、治水の神さまのようなお方じゃ。晩年---60歳のときに有徳院殿さまに召されて出府され、井沢為永(ためなが 享年85歳 500俵)としてご勘定所づきとなり、諸方の新田開拓や河川の治水にお働きになった」
【参考】井沢弥惣兵衛為永
「その貴志池と申しますのは?」
「紀ノ川にそそぐ川の一つに貴志川がある。その貴志川の支流の氾濫を防ぐために築かれた池という。たぶん、そのあたりにある村ではないのかな。で、貴志村とおことのかかわりは?」
(横に流れている紀ノ川の河口が和歌山城下。
緑○=貴志池 赤○=金剛峯寺 明治21年ごろ測量図)
「田沼(主殿頭意次 おきつぐ 58歳 老中)侯のご先祖が、そのあたりを知行なされていたやに---」
金剛峰寺の寺領を田沼家の知行地にすりかえてしまった。
「貴志池は、和歌山城下からどれほどのところにございますか?」
「さて、紀州入りしたことはないので---家をさがせば、絵図のひとつくらいはあるかもしれん」
「ぜひ、拝見したいものです」
「妙にご執心じゃな」
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