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2010.07.30

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(3)

「あの出来事は、喧嘩両成敗にあたる事件ではない」
親類筋の浅野大学長貞(ながさだ 30歳 500石)が断定し、小料理〔蓮の葉(はすのそは)〕の女将・お(はす 31歳)が不服そうな表情をみせた。

平蔵(へいぞう 31歳)は、おもわず、僚友・大学を瞶(みつめ)た。
もいう一人の僚友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)は、おの肩をもつつもりで乗りだした。

大学の趣旨は、喧嘩というものは、双方が争う気持ちになったときをいう。
しかし、内匠頭長矩(ながのり 35歳 播州・赤穂藩主5万石)はその気になって斬りつけたが、吉良上野介義央 (よしなか 61歳 4000石)は口論にも応じていないし、刀を抜いて応戦もしていない。
つまり、長矩が一方的に仕掛けたのだけであっから、喧嘩ではないと。

長矩どのは、[宿意あり]といってから斬りつけておられる。遺恨が堪忍ならぬほどのあつかいをうけた上での刃傷沙汰であろう?」
「それとこれとは、別のことだ。堪忍がならぬほどのあつかいをうけていたであろうが、そのことは家臣と計って解けたであろう。だが、殿中では禁制とされている抜刀をすれば、藩の取りつぶしは当然のこと、200人を越す家臣たちが禄を失なう。にもかかわらず、一方的に刃傷におよんだ」

「家中の忠義の方々が、お仇討ちをなさり、赤穂藩の名をお高めになりました」
が、江戸庶民の大方のとおり、浪士たちの肩をもった。

「47人は、たしかに、な。喧嘩両成敗とは離れるが、討ち入りに参加しなかった160余人は、その後、息をひそめて生きなければならなくなったし、47人の遺族で、他藩へ仕官がかなった者も寥々とした数であったと聞いておる」
((だい)は、人の上に立つ者、将たる者のこころがけを説いている)
平蔵は、こころして聞いた。

佐左(さざ)が異を口にした。
。論が逸(そ)れた。屈辱が積もれば、それを晴らすのも喧嘩の一つではないのか?」

大学は反論せず、
「もちろん、そういう喧嘩もあろう。が、時と所を間違えると、はた迷惑になる。そういう喧嘩は、大人はしないものなのだが---」

平蔵が収斂(しゅうれん)させた。
「しかと、こころえておこう」

佐左が、おに、厠の位置を訊いた。
その脊に掌をあて、押すようにしておが導く。
「酔うまではいっていないはずだが---」
さん。佐左は、淋しいのだよ」
「男は、寂しいものだよ」
「だから、こうして、ときどき、飲む」

佐左。遅いな」
「案ずることはない。子を失った者同士、いたわりあっているのであろう」

参照】2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆] (

「女将も、亡くしているのか?」
がお(ゆき)と呼ばれた人妻だったときのことは口にせす、ただうなづいておいた。
胸の内では、心に傷をもった者同士、霊感のような交信があるのに、いささか驚きをおぼえていた。

参照】2008年10月27日[〔橘屋〕のお雪] (

(おれが、里貴に去られた、悲しみの渕をかかえていることを、だれがうけとめてくれようか?)

厠のすぐ隣りの小さな部屋で、佐左はおの口を吸い、尻を引きよせていた。
長野さま。こんど、お一人でいらっしゃてください」
「そうしよう。いけない日があるか?」
「そんな日があるはずはありません。五ッ(午後8時)すぎにいらっしゃれますか?」
「わかった」

桜紙を手わたされた。
「唇の紅をおぬぐいになって---」


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 【参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () (


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コメント

浅野大学長貞のいうとおり、確かに吉良は刀も抜いていない。
だから、法の定め通り、浅野内匠頭の切腹はいたし方ない。
けれど、吉良の強欲さは明らか。
つけとどけの社会だったんだから、家臣がこっそりとどけたらどうなっていたか。
それを知った内匠頭はその家臣を処罰したろうか、など考えると、面白い事件です。
いままでは、赤穂浪士の肩をもった側で考えていましたが、おしえられました。

投稿: tomo | 2010.07.30 03:57

法が整備されてきたのも綱吉のころといわれています。
一事一様といって、一つの事件には一つの刑罰にしたのも綱吉のころとか。

それまでは一事両様だったんですね。つまり、情状酌量が多かった。日本人は情状酌量が好きですからね。大岡裁判、遠山の金さん、小説の鬼平も入るでしょう。

浅野内匠頭長矩がやったことは、非法であるから切腹を助言した当時の学者は多かったことも事実です。

赤穂浪士たちの行動にも、府内で徒党を組んでの押し入りという見方もけっこう、あったみたいです。

浅野大学長貞の祖が幕府の命にしたがって謹慎したのも一理あるわけです。
まあ、お蓮の気持ちが大方の庶民の気持ちだったのでしょうが。

投稿: ちゅうすけ | 2010.07.30 10:15

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