安永6年(1777)の平蔵宣以(7)
「宝船の雛形をのこしていくのは、どういう意味あいだとおもうかね?」
女将のお蓮(はす 32歳)が去りがたがっているの目の隅におきながら、平蔵(へいぞう 32歳)がお勝(かつ 36歳)に問いかけた。
「一つには、独りよがり」
「独りよがり---これは、あるな」
平蔵が大きくうなずいた。
それぐらいのことは、平蔵も承知していた。
しかし、お勝の口をなめらかにするために、あえて、大仰な身ぶりをとったのである。
果たして、お勝は、
「二つには、盗人仲間への誇示」
「ふむ。あるな」
「三つには、破門した者へのいましめ」
「---なに?」
お勝の思惑によると、〔船影(ふなかげ)〕のお頭の忠治(ちゅうじ 60がらみ)は、ちゃんとした盗人ならば守らなければならない三つの掟---
一、盗(と)られて困るものからは盗らない
一、殺傷をしない
一、おんなを犯さない
を配下にしっかりといいつけている。
破った者は、容赦なく放逐する。
そこが〔蓑火(みのひ)〕のお頭とのちがいだと。
喜之助お頭も、三ヶ条は守らせるが、破った者の言い分もちゃんと聞き、納得させたうえで自分から身を退(ひ)かすようにしむけていた。
盃の酒が冷えているのも気がつかないで耳を凝らしていた同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)が溜め息をついた。
お勝のことは、7年前にあることで〔蓑火〕の喜之助とかかわりがあったが、それは盗(つとめ)のことではない。
喜之助が京都においていたおんなの一人が化粧(けわい)指南師になりたいというので、口をきいてやったらしいと説明してあった。
だから、これ以上、詮索しないこと---と、あらかじめ、多田同心には釘をさしておいた。
平蔵が、お勝の盃に注いでやると、お蓮がとってつけたように、
「気がきかなくて、相すみません」
あわてて、多田同心の酒を杯洗にあけ、手をうって新しい酒をもってくるようにうながした。
お蓮は、お雪(ゆき 23=当時)と名のっていた時代に、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳=当時)とお勝(28歳=当時)を探したことがあった。
【参照】2008年10月17日~[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
平蔵といっしょに店へきたお勝をみて見ても、
「あら、お勝姐(ねえ)さん。お久しぶり」
ほとんど興味をしめさなかった。
色じかけで平蔵をとりこむことは、とっくにあきらめたらしい。
「今夕は、佐左(さざ)さまはごいっしょではなかったのございますね」
お勝の顔色をたしかめながら、長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳 600俵)の名を口にしてみた感じであった。
いまは、〔船影〕の忠治のことを、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛にどう話すか、胸のうちで思案していた。
そのことを含んで、平蔵は今夕の席を〔蓮の葉(はすのは)〕に決めた。
もう一つ、盟友・長野佐左衛門孝祖とのあいだの深浅を推するねらいも兼ねていた。
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コメント
お盆休み、外はうだるだけなので、クーラーのきいたわが家で、このブログを250ページほど読み返し、改めて、驚きました。
すごい史料です。
長谷川平蔵の史実をここまで調べた人は居ないと感動。
単に、平蔵のことだけではなく、周囲の史実も調べつくしてあります。
「犯科帳」だけで終わってはもったいない、当時の政治体制、商業の姿、庶民の暮らしぶりにまでおよんでいます。
これほどの鬼平ブックはほかのブログにはありません。
あらためて、頭が下がりました。
投稿: 左衛門佐 | 2010.08.17 05:05
>左衛門佐 さん
250ページもお読みかえしてくださったとか。ありがとうございます。
書き手すら、リンクを張るときに読み返すのがやっとというほどたまりました。
そのたびに引用文献をおもいだし、ひもとき、新たな発見をしています。
これからも、いろいろ、お導きくださいますよう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.17 11:39