豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(2)
屋根舟が深川・冬木町寺裏の〔季四〕の舟着きへつけるまで、小声で会話をかわした。
船頭は、顔見知りの辰五郎(たつごろう 51歳)ではなかった。
「佐左(さざ)。今宵、芸者が必要なのか?」
佐左(長野佐左衛門孝祖 たかのり 36歳 600俵)の内室は、実家・藤方家へ帰ったままであった。
お秀の不幸な死から、もう6年になっていた。
【参照】2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆]
ようやく立ち直った佐左は、また、小間使いとして奉公にあがっていたおんなに手をつけた。
小間使いといっても若い後家で名はお俊(とし 26歳)で、性技もこころえていた。
いや、むしろ、佐左のほうが誘導されていたといったほうがあたっていよう。
お俊は、側室としての地位を求めた。
内室が里へ帰った原因であった。
離別は承知しない。
産道の門が裂けている女躰では、再婚がおぼつかないと覚悟しいたのであろう。
「いや。充分に足りておる」
佐左の口ぶりに、大学(だいがく 浅野長貞(ながさだ 35歳 500俵)が声をださないで笑った。
じつは、平蔵(へいぞう 36歳)には、大学に打ちあけたいことがあった。
【参照】2010年12月29日~[浅野家の妹・喜和] (1) (2)
(わざわざ口にして、大(だい)に気苦労を背負わすこともない。おんなと男のあいだのことは、時が自然に始末をつけてくれよう)
今宵は、気のおけない盟友のざっくぱらんな集まりだから、話題が城内のことになっても、座をはずすことはないと、里貴(りき 37歳)には前もって告げてあった。
里貴の酌を笑顔でうけている大学の横顔にちらっと視線を投げ、
「大(だい)。本城の小姓組へ組みいれられていた4組が、ほとんどそっくきり西丸へ出戻ってきたが、この際、大も加えてこらえなかったのか?」
「お上は、おれがことを鷹狩りの射鳥要員とおもっておいでらしい---」
苦笑い口調で応じた。
大学は弓の名手であった。
佐左へ酒をすすめている里貴に、
「女将どの。佐左のところの組頭が代わっての。紀州藩系の渋谷采女正(うねめのかみ)良紀(よしのり 58歳 3000石)どのだ。存じおるかな」
うなずいた里貴が、銚子をむけてきた。
「ご先代のご母堂が藩のご家老・安藤飛騨(守)さまの姫ということで、有徳院(吉宗 よしむね)さまから2400石の加増をおうけになっています」
意味ありげな微笑をもらしながら、佐左が、紀州藩では60石のお膳番であったとの風評が組の中でささやかれておる---とつけ加えた。
聞きとがめた大学が、
「佐左、与(くみ)してはおるまいな?」
たしなめた。
あわびの酒蒸しをつまんでいた佐左がむせた。
(渋谷采女正良紀の個人譜)
、
「番頭が紀州色になったのは、佐左の3番手だけであろう。小姓組の4人はそうではない」
平蔵のいうとおりであった。
西丸への復帰を発令された小姓組の番頭は、
1の組
大嶋兵庫(のち肥前守)義里(よしさと 63歳 4700石)
2の組
酒井多宮(のち紀伊守)忠聴(ただとく 50歳 7000石)
4の組
花房因幡守地正域(まさくに 54歳 5000石)
3の組だけが新任であった。
島津山城守久般(ひさかつ 51歳 3000石)
佐左は、かんたんには引きさがらなかった。
役人にとり、人事は重大な関心事であった。
「番頭はそうでも、番士には紀州藩出が3人もあがっている」
たしかに、佐左の指摘どおりであった。
一色strong>一色靭負政方(まさかた 27歳 900石)、市川大隈守清素(きよかど 26歳 1000石)、大久保銕蔵忠道(ただみち 16歳 5000石)。
「大久保どのは、たしか、故・家基(いえもと 享年18歳)さまの伽衆でもあったな」
平蔵は、贄(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳 300俵)が竹千代(のちの家治(いえはる)の伽衆時代の逸話を聞いたことをおもいだした。
【参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
「伽衆といえば---」
大学が口ごもった。
| 固定リンク
「011将軍」カテゴリの記事
- 将軍・家治(いえはる)、薨ず(4)(2012.04.14)
- 将軍・家治(いえはる)、薨ず(3)(2012.04.13)
- 豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(6)(2011.02.20)
- 将軍・家治(いえはる)、薨ず(2)(2012.04.12)
- 将軍・家治(いえはる)、薨ず(2012.04.11)
コメント
長野佐左さんの新しい番頭の渋谷隠岐守家の菩提寺も戒行寺でしたか。長谷川平蔵家もそうでしたね。
平蔵家は家康の江戸入りに従っていますから、最初から戒行寺だったでしょうが、渋谷家は吉宗にしたがっての御家人入り、ということは、紀州勢の有力者で、ほかにも戒行寺の檀家がいたのでしょうか?
投稿: mine | 2011.02.16 09:34
>mineさん
おもしろいところへ着目なさいましたね。
ざっと調べてみました。
ざっとというのは、吉宗にしたがって江戸城入りした紀州藩士のうち、300石以上の家禄をもらって戒行寺の新檀家となった家という意味です。
加納遠江守久通 1万石 伊勢き八田藩主
御側
渋谷山城守良信 3000石 御側
北村日向守正矩 800石 小姓組番頭
桑島庇護守政周 500石 小納戸
上野七郎右衛門 300石 小姓組
以下300石で 小納戸から
牛島内匠頭常房 頭取
菅沼主膳正定寅 のち新番頭
岩田平十郎定勝
橋本六之進忠正
本多備前守 定尚 頭取
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.16 14:10
>ちゅうすけさん
驚きました、ちゅうすけさんの探索パーワーのすばやさ。
mineさんの紀州勢のうちで戒行寺を江戸での菩提寺として選んだ家の問い合わせに、まさに、瞬、発をおかずのタイミングで10家の名と家禄がすらすらと答えられてきました。史料名を明記されていないところを見ると、お寺へ問い合わされたのでも、文献にあったのでもない。
すると、ちゅうすけさんのデータベースからの産物としかおもえません。
いったい、どんなデータベースなのか?
興味は増すばかり、です。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.02.17 05:26
>文くばりの丈太さん
吉宗や長福丸(のちの家重)に赤坂の藩邸から従った紀州藩士で幕臣になった200人ほどの『寛政譜』は、たまたま、一覧できるようにA3サイズにコピーしなおしていたのです。
電子化のデータベースにはまだしていないので、検索はそのA3の紙めくりですから自慢できるものではありません。
お恥ずかしい。
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.17 11:40
データベースと呼べないなんて、とんでもありません。
紙めくりでもなんでも、あれだけのものがさっと出せるんですから、尋常ではありません。
おそらく、鬼平ものでは。日本最高の史料をそろえていらっしゃるのでは?
投稿: mine | 2011.02.17 15:13
>mine さん
時代は、電子化によるデーダベースに進んでいます。
もし、ぼくがもちっと若くて、パソコンを自在に使いこなせれば、のちのちの方に資するデータをのこしておけるのにと、力不足を悔やんでいます。
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.19 09:41