西丸目付・佐野与三郎政親(3)
「粗飯(そはん)だが、供餐(きょうさん)していってくだされ」
平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓組の8番手・組頭)が、西丸目付・佐野与三郎政親(まさちか 37歳 1100石)にすすめた。
「銕(てつ)。ご相伴して、酒のお相手を---」
言われて、銕三郎(てつさぶろう 23歳)も、相席している。
このところ、銕三郎の酒の腕は、機会が重なっているので、ほどほどにあがってきている。
生鰹節(なまり)と野菜の煮たのに、茄子(なす)の丸煮、白瓜(しろうり)の塩もみ、冷奴が、膳にならんだ。
銕三郎は、ちろりをとって、佐野与八郎の杯に注ぎなから、
(はて---?)
と、不審におもった。
先刻、与八郎政親は、銕三郎と〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)が、永代橋ぎわの居酒屋〔須賀〕で呑んでいるところを、徒(かち)目付の下働き(徒押 かちおし)が目にし、向島のお竜の住まいに看視がついたと言った。
【参照】[西丸目付・佐野与三郎政親] (1)
徒目付は、目付の下支えをする者たちである。
役高200俵。本丸に40人、佐野のいる西丸に24人。
その者たちが使っている徒押はその倍以上の人員であるが、彼らの職務はお目見(みえ)から上の幕臣の理非の探索であって、よほどのことがないかぎり、町人にはおよばない。
とすると、お竜の住まいが見張られるはずはない。
(見張られているのは、おれ、なのだ、この銕三郎なのだ。
しかし、お目見もすんでいないおれが、なぜに?)
銕三郎が、与八郎に酌をしながら、その顔に目を向けると、与八郎がうなづいた。
晩餐が終わり、与八郎が席を立つまえに、すかさず、銕三郎が、
「与八郎お兄上。新大橋まで、お送りいたしましょう」
佐野与八郎の屋敷は、永田馬場南横寺町(今の霞ヶ関裏手)にある。
(緑○=佐野家の屋敷 議事堂裏手 1000坪ほど)
さすがに初夏で、表は、暮れなずんでいた。
海からの風が涼気と潮の香をはこんでくる。
銕三郎が並ぶと、与八郎は供の者に、後(おく)れてくるように言いつけた。
「お兄上。先刻のご注意は、徒(かち)のお目付衆が、拙の行状をさぐっておられるからなのですね?」
「察しがついたか。さすがだ。長谷川どのに落ち度が見つからぬための、苦肉の策(て)であろう」
「なにゆえの、落ち度さがしでございますか?」
「銕三郎どのも存じおろうが、先手の組頭は、番方(ばんかた 武官系)出世双六(すごろく)のあがりの地位といえる。あとは、資質のすぐれたご仁のみが、役方(やくかた 事務方 行政官)となって遠国(おんごく)奉行へ転出なさる」
「しかし、父上は、組頭におなりになって、まだ、足かけ3年でございます。次のご出世までは、うんと間が---」
「そうではない。長谷川どのは、弓の組頭。先手は、鉄砲(つつ)よりも弓のほうが格が上。鉄砲組のお頭で、弓の組頭への組替えを狙っておられる方がいても不思議はない」
「ということは、拙の不埒(ふらち)が、父上の足を引っぱることに?」
「たくらむものがいるやも---な」
【ちゅうすけ注】こうなると、ちゅうすけとしても、銕三郎の注意をうながすためにも、目付に手をまわした、あってはならない醜業をおこないそうな仁さがしに、協力しないわけにはいくまい。
ま、どこの世界にもいつの時代にも、同僚をおしのけて出世したい輩(やから)がいて、不思議はない。とりわけ、鬼平のころの幕府では、家禄が固定した閉塞状態がつづいていたゆえ、役高(職務手当)をねらったり、地位をすこしでもあげたがる幕臣が、少なくはなかったともいえよう。
清いばかりの世界など、小説の中にしかない。
銕三郎が、お仲と睦んだり、お竜と親しくはなしたりしたことは、徒目付の下働きによって、松平定信への報告書『よしの冊子(ぞうし)』に、次のように書かれれてもいる。
【参照】[『よしの冊子』] (20)←橙色の番号をクリック
長谷川平蔵は、かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので---
【参照】2008年8月9日~[〔梅川〕の仲居・お松] (8) (9)
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
| 固定リンク
「094佐野豊前守政親」カテゴリの記事
- 平蔵と佐野与三郎政親(2)(2012.05.20)
- 平蔵と佐野与三郎政親(1)(2012.05.19)
- 佐野与八郎の内室(2010.09.20)
- 佐野与八郎の内室(4)(2010.09.23)
- 佐野与八郎の内室(5)(2010.09.24)
コメント