宣雄、火盗改メ拝命(3)
「銕(てつ)。明日は、新番組・1番手の番頭・本多讃岐守どのをお訪ねする。そちも相伴(しょうばん)するように」
「承りました」
本多讃岐守昌忠(まさただ 60歳 420俵)は、父・平蔵宣雄(のぶお 47歳=当時)が明和2年(1765)に先手・弓の8番手の組頭に抜擢されるまで、足かけ4年、同組の組頭をつとめていた仁である。
そのあいだに約3年、火盗改メ・本役を遂行していた。
弓の8番手の筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 62歳)にいわせると、前任の久松忠次郎定愷(さだたか 42歳=拝命時 1200石)とくらべると、こころがけが違いましたな---であった。
自身が気張っているわけではなく、与力同心たちに意見を述べさせ、
「なるほど。そういう見方もあったか。いや、もっともである。その機略をおこなってみよう」
と、配下のものに花をもたせた。
「父上。本多讃岐守さまと、表六番町にお屋敷のある本多采女(うねめ)どのとのかかわりは、いつだったか、左立葵のご紋をお使いの本多さまからお聞きしました」
銕三郎が言った本多采女紀品(のりただ 58歳 2000石)は、いまは新番の6番手の番頭をしているが、その前は先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭であった。
銕三郎は、紀品を伯父のように敬愛している。
【参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2008年2月1日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
その讃岐守昌忠と采女紀品の両本多家の家門の流は、紀品が話したことを要約すると、次のようになる。
本多家は、もともと、藤原の流れで、助秀(すけひで)が豊後国本多郷に住み、郷名を姓として称したことから始まる。識者によると、本多郷がどこであったかは、いまのところ、特定されていないと。
本多一族のうちで、早くに三河国へきて、松平(のちの徳川)泰親(やすちか 家康の11代前)の配下に入った者たちがいるらしい。
うち、2門の家譜が記録されている。
定通(さだみち)と定正(さだまさ)である。
定通の一族で名が高いのは、平八郎忠勝(ただかつ)と忠刻(ただとき)といってもよかろうか。
平八郎忠勝は、家康の陣営にあってまだ20代のときに、敵・武田方から「家康に過ぎたるもの二つあり。唐獅子頭と本多忠勝」と、その勇猛ぶりをはやされたという逸話が伝えられている。
忠刻は、秀忠(ひでただ)のむすめ・千姫を正室に迎えたことで知られている。忠刻その人は31歳で卒したので、千姫は剃髪して天樹院と号した。
一方の定正の流れには、家康のために知略・策謀をめぐらせた本多正信(まさのぶ)・正勝(まさかつ)父子、駿州・田中城主の本多伯耆守正珍(まさよし)もそうだし、本多紀品自身もそう。
「豊後から遅れて東上し、大権現家康公の麾下となったのが、讃岐守昌忠どのの祖・権左衛門正敏(まさとし)どのでしてな。その息・権右衛門正房(まさふさ)どのは、大坂の夏の陣で、燃える城中から千姫さまをお救いしたお一人なのです」(本多采女紀品 (4)から抜粋再録)
「銕。讃岐守どのにお目にかかったら、ぜひ、お願いしてみるがよい」
「なんでございましょう?」
「火盗改メ・お頭(かしら)の時代の十手を拝見させていただきたい、とな」
「火盗改メのお頭のときにお持ちになっていた十手でございますか。それは興味深い、ぜひにも、お願いいたしてみます」
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