竹節(ちくせつ)人参
「この席に、備中(守 宣雄(のぶお) 享年55歳)どののお顔が欠けているのが、いかにも残念」
この家の主の老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)のこころのこもったの言葉に、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)は、あやうく、涙をおとしそうになった。
席にいた、
本多采女紀品(のりただ 60歳 無役 2000石)、
佐野与八郎政親(まさちか 42歳 西丸目付: 1100石)、
石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 59歳 勘定奉行 800石)、
赤井安芸守忠晶(ただあきら 47歳 先手・弓の2番手組頭 1400石)
一様にあいづちをうった。
ひとり、平賀源内(げんない 45歳)だけが浮かない顔をつづけていた。
【参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)
みとがめた意次が、
「源内どの。どうかしたかな?」
「いや。長谷川備中どのがおられぬと、せっかく持参した竹節(ちくせつ)人参の種の始末に困るのでな」
竹節人参は日光の山中で見つかった、朝鮮人参に似た薬用植物として、注目されはじめていた。
といっても、本多紀品や佐野政親には無縁のものであった。
日本から銀を流出させている長崎貿易の輸入品目の一つが朝鮮人参で、もう一つが生糸であったことは、たいていの徳川時代の経済史に記されている。
「なぜ、長谷川備中どのでなければならぬのかな?」
意次の問いに、
「かの仁は、知行地の開拓により、百石をうわまわる新田を開かれた。ご内室も、知行地の長(おさ)のおなごと聞きました。それで、もしやして、竹節人参の植え場を、知行地で試みてくだされるかもしれないと期待しておりましてな」
「それなら、嫡子の銕三郎---いや、平蔵どのがおるではないか」
平蔵に顔をむけた源内が、
「平蔵どのは、いつであったか、新案の立て方をお訊きなったことがござったな?」
「はい。うかがいました」
「竹節人参の栽培をやってみるか?」
「せひにも---」
「10年がかりで、とりかかってみられい」
「10年がかりですか?」
「さよう。植え場の秘伝は、ここに記しておいた」
勘定奉行で、長崎奉行を兼任し、銀の流出をもっとも憂慮していたことのある石谷備後守が、
「京では、いろいろとご苦心であったが、こんども、ご公儀のためにもなります」
励ましてくれた、
「京では---」の石谷の言葉の意味を知っているのは、田沼主殿頭だけであった。
【参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] (1) (2)
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幕末ものが好きな人にはたまない。
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